わが毒母はマルチとか宗教とかそういうのが大好きで、昔から古今東西のいろんな宗教に一時的にハマってはさっと離れるという動作を繰り返していました。
おそらく自分の寂しさとか、欠乏とかそういう満たされないものがものすごくて、それを宗教で埋めようと必死だったのでしょう‥
いつもなんかよさそうな宗教を探してははまり、その中ではよさげな教義とか優しい信者さんのケアとか居場所とかそういう欲しいところだけかすめ取って、そして飽きたらまた次の宗教に行く、というのが彼女の信仰スタイルでした。側から見れば、全然熱心じゃなかった。
一見「うまく宗教利用していたんじゃない?」と見えますよね。
でも母は、宗教によって抱えた問題が解決したり、心が満たされるような事は全くない様子でした。
彼女の持つ、大きな心の欠乏はこの「宗教巡り」で満たされる事は決してなく、子供の私からは、いつも満たされず不安とか心配とか欠乏に振り回されているように見えていました
毒親は宗教を一体どのように利用して、そして満たされないままにいろんな宗教をあちこち放浪していたのか?ということを書いて行きたいと思います。
「自分が欲しい言葉」だけを宗教からかすめとる
母がある宗教に入信していた時などは、
アタシはあんたの子育てに困っているから、この宗教で解決してもらうために入信してるの!
子供の私に向かってそう言い放っていました
子供にこんなこと言っちゃう親‥いまは呆れて「はぁ困ってる元凶が私ですか。生まれてどうもすいませんね」って感じですが、こんなこと幼い子に聞かせて、子が罪悪感抱くって想像できないんですかね?
困った子供(私)問題を解決するために母が飛び込んだある宗教。
そこではやさしそうな信者さんに、教義の中でも子育てに言及されているところだけをわかりやすく教えてもらうって感じで熱心に施設に通ったり、自宅まで出張してもらったりしていましたが、毒母が満足したか飽きたかわからないのですが、数年経ったらなにごともなかったかのようにサッと離脱していましたね‥
敬虔な信者さんから「優しさやケア」をかすめ取る
また別の宗教にはまっていたときは、そこの信者さんたちが母にとっても親身になってくれたらしく、その信者さんたちにどっぷりと依存して、自宅に招いてもらってご飯をごちそうになったり話を聞いてもらっていました。
母はいつもどの宗教でもそうなのですが、教義をじっくりと学びよく理解したりとか、信仰をまっすぐするとかの姿勢はゼロなんです。
この場合は、母に親身になってくれる熱心な信者さんの優しさやケアを吸い取って利用する、みたいな感じだったんですよね。
金払いは悪い。金のかからない宗教ばかりを巡回していた。
あとめっちゃケチで、金のかかる宗教は基本的に引っかからなかった。
「今度の宗教ね、会費がすごく安いからいいのよ!」と私に自慢していたこともありましたね‥
ある宗教では、「あの人は教団にピアノを寄付してた」とか、「あの人はたくさんのお金を教団に捧げていた」とかの噂を(母から)聞いていたので、金払いが悪く、信者さんのケアとか教義の良いとこ取りとかばかりの母のような信者は、きっと歓迎されてなかったんだろうな、
恐らく頭数(信者数)が増えた位しか教団には役に立ってなかったんだろうなぁ‥と、母が関わった宗教がちょっと気の毒になりますね‥
しかし母は、いつまでたっても宗教で満たされることはなかった
宗教の良いところだけをかすめ取り、金もろくに払わず、という姿勢の母は、うまく宗教を利用してたんじゃない?って見えるかもしれませんが、
常に宗教とこんなずるい関わり方しかしていなかった毒母は、いつまでたっても、宗教で救われとか満足なんかを得られなかったようです。
彼女の不安や悲しみ、そして寂しさの根本というものは一向に解消される事はありませんでした。
どんな宗教にはまろうとも、彼女はいつも不安や心配や孤独に怯えてうろうろしていたんですよね
いいとこ取りばっかりでうまくいくなんて、そんなうまい話あるわけわけないんですよ。
しかし彼女はそんなことに気づく様子もなく、ひたすら出会った宗教のいいとこ取りばかりしては乗り換えて‥というスタイルを止めることがなかった。不幸ですね。
↑最近読んだ本「感情に振り回されないレッスン」の中に、こんないつまでも満たされずに宗教をうろうろしている毒母に言って聞かせたい一説がありました。(まぁ、言っても絶対頭に入らないんだろうし無駄だから言う事なんてありませんけれどもね‥)
ドーパミンはリスクを背負って得たものや、努力して得た結果に対して、さらに大きな快感になります
感情に振り回されないレッスン より引用
わが毒母のように、いいとこ取りで苦労なくうまみをかすめとろうという姿勢では、いつまでたっても脳からドーパミンが出るレベルの快感や幸福感とかに満たされるわけないんだよ、と、脳の仕組みまでそう言っているわけですよね。
現在母とは疎遠にしてるので、彼女がいまはまってる宗教がどんなのかとか、信仰の姿勢とかは全然分かりませんが、
疎遠にする直前もあいかわらずある宗教にはまっていて、そこは彼女にしてはけっこう長続きしていて、足しげく施設に通って信者さんと仲良くしてもらったり、奉仕活動をして暇つぶししているようでした。
疎遠前の私に、
あんた、こんな素晴らしい宗教をやらないなんて信じられない!
あんたもこの素晴らしい宗教に通うべき!
などとよく説教してきましたが‥
私は彼女のこれまでの宗教遍歴とか関わり方を見てきたので、「どの口が言うんだ」としか思えなかった。
どうせこれまでのように、宗教施設を居場所として利用したり、優しい信者さんに愚痴や悩み聞いてもらったり、信者さんに絡んで寂しさを解消したりと、自分の良いように宗教利用してるんだろうなと。
私はあなたのように宗教を利用するような気持ちなんかないからぜんっぜん必要ないです、と思いながら聞き流していました。
おわりに
こうしてみると、毒親は宗教大好きだったんですが、その宗教の利用の仕方っていうのが、まぁ徹底して浅くてせこくてずるいんですよね‥
自分の欲しいところや利用できそうなところだけをつまんで、自分のものにして飽きたりもういいやと思ったら、ポイっと捨てるみたいなやり方でした。
毒母とは逆に、あまりに宗教に没頭し、人生やお金すべてを宗教に捧げてしまう人たちがクローズアップされ、社会問題になりましたね
自分の人生すべてを賭けるような信仰姿勢は問題だとは思いますが‥
でも、私がいろんな宗教で会ってきた、熱心に信仰している信者さんたちというのは、困っている人にケアや時間やいろんなものを笑顔で分け与えてあげられるような人たちばかりでした。
良い悪いは置いといて、母とは心がけから何から、全く違う‥
毒母はいつだって自分の手を汚さず労力をかけず、宗教や信者相手からほしいところ、いいところだけをかすめとっていくというずるスタイルだったんですよね
しかし‥自分の都合の良いように利用したり、良いところだけをかすめとっても、毒母はいつまでたっても不安や不満は解消されず心も満たされる様子はなかった。
きっと現在でも消えることのない不安や不満の解消を求めて、そしてべったりと依存して利用し尽くすはずだった長女(私)に逃げられてしまい、新たな依存先を求めては他の宗教を見つけ、そしていつものようにいいように利用していることでしょう。
そしていつまでたっても根本は救われず満たされず、不安や寂しさを解消することができないのでしょうね
満たされない。不安や寂しさにさいなまれる‥これらは他人にはどうにもできない、自分で解決しなければならないものです。あたふたせず、まずは腰を据えて、自分にしっかりと向き合わなければならない。
毒母が長年やってきたような宗教をあちこち渡り歩きみたいな小手先の方法なんかじゃ絶対に解決できるわけはないのですが、果たして彼女は寿命を迎えるまで、その境地に達することができるのでしょうか。無理でしょうねきっと。
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