わが毒親たちは、そんなに仲が悪いのに、なぜ結婚した?
そんなに嫌い合っているのに、どうしていつまでも嫌々一緒にいるの‥?
と、そばで見ていて不思議に思うくらいに超絶な不仲夫婦でした。
母は私が幼い頃から、父がどんなに嫌な人間かとかいう父の悪口やぐちをいつもたれながし、聞かせ続けたものでした。
不仲の親に生まれ、幼い頃から父親の悪口を聞かされ続けた子供は、果たしてどんな幼い頃をすごし、やがてどんな人間に成長してしまうのか?
超絶不仲の両親、しかも毒親の元に生まれた、私自身の経験を文章にしていきたいと思います。
この記事では
- 不機嫌・無視や暴力‥家で暴れる毒父の行動。これが「母のぐちや悪口の元」となる
- 父の愚痴を、長年私にたれながし続けた毒母
こんなことについて書いていきたいと思います
共に将来を誓い合った二人は、間もなく家庭内で激しくいがみ合う
互いが互いを必要として結婚を決意し、晴れて夫婦となった男女二人。彼らはやがて2人の子供に恵まれました…わが父母のことです。
これだけを見たら、彼らは一般的な普通の家庭を築いた幸せな夫婦に見えますよね。しかし現実は違いました。
彼らは私が物心ついたころから超不仲。顔を合わせればケンカ、いがみあい、言い争い‥
彼らが落ち着いて和やかな、いえ、ちゃんとした会話をした様子など、共に暮らした20数年の間、私は数えるほどぐらいしか見たことがありません‥
彼らが接触しているときは、たいていが事務的な会話かもしくはケンカ。
彼らが接近したり、会話が始まりそうになると
うわっ、母が父に近づいた‥
また大きな争いにならないといいけど‥
と、幼い私はビクビクしながらその様子を見守っていたものでした
将来を誓い合った二人の、なんという物悲しい結末なのでしょう‥
そんな彼らは何年かに一度レベルで、奇跡的に楽しそうに、なかよくしゃべるときがあったんです。
そんな親の姿を見た私は、心からのうれしさや幸せを感じ、同時にとてもほっとしたものです。
もし。この状態が、家庭内での普通だったとしたら‥
そんな和やかで仲の良い両親のもとで生きることのできる子供というのは、私が常に抱えている不安や心配なんてなにもなくて、どれほどにのびのびと日々を過ごせるんだろう‥
そんな想像を巡らせていたものでした
不機嫌・無視や暴力‥家で暴れる毒父の行動。これが「母のぐちや悪口の元」となる
母とケンカをして不機嫌になった毒父は、その後いつも、独特なムーブが始まります
独特ムーブが続く期間としては、発生から数週間にわたることが多かったです
どんなムーブかというと‥ケンカ後しばらく、母だけではなく、なぜか家族全体にその不機嫌をまき散らすんです。具体的には、
- 家族と目を合わせず話もせず、まるで家族が存在してないかのように無視する
- ドアをバタンとわざと強くしめたり、物を乱暴に置いたり投げつけるなど、いちいち大きな物音をたてる
- 一人で繁華街や歓楽街にでかけて帰らない
※これはいつもお金を極限までケチるドケチな父にとっては、家族を裏切る重大な行為だったようです。私としては正直、「不機嫌な父が家からいなくなって、ちょっとほっとできる時間」でしたが‥
このように、不機嫌な毒父は、まるで動物の威嚇行為のような行動を数週間ほど家の中でとり続けます。
しかも、少しでも毒父の気に障る行動を取ると、すぐに毒父の怒りが爆発・再燃し、この奇行は延長されてしまう恐れがあるです
家族は怒り再燃の面倒を避けるために、息をひそめて生活することを余儀なくされます。
親の夫婦げんかの後数週間は、家の中の空気はピリ付き、しんとしずまりかえります。
毒親たちの、夫婦げんかのとばっちりはこのように、夫婦間だけでなく、迷惑にも家庭、子供まで降りかかってきたものでした
夫婦ゲンカ+毒父の奇行が発生するサイクル
毒親の夫婦げんかは、ちょっとした言い争いなんかは呼吸をするがごとくしょっちゅうでしたが、このような毒父の奇行が発生するレベルの大きさのケンカは、サイクルとしては2、3か月に一度、その直後からの毒父の奇行はその後2~3週間程度続く、という感じでした
まるで雨季と乾季を繰り返す、熱帯の気候のごとき毒親の夫婦ゲンカと父の不機嫌。
子供の頃の私は、たとえ父が穏やかなときであっても、
お父さんがこんな穏やかなときなんて、どうせ一時的なものだもんな‥
どうせまたすぐに怒ったり暴れたり、無視したり、不機嫌になるんだよな‥
このように、父やその後しばらく凍り付く家庭の空気に対して、常に覚悟や心の準備をしていたものです。
つまり、幼い私の心には、親のケンカ、そして不機嫌や暴れることへの、恐怖や怯えの気持ちが常駐していた状態でした
そのエネルギーの消耗たるや‥幼い子にはきつい状況でした
父の愚痴・悪口を幼い私にたれながし続けた毒母
母は、そんな毒父の愚痴や悪口を、私が幼い頃からじゃんじゃん垂れ流して言い聞かせてきました
運悪く、私が彼女のぐちを受け止めるにもっともふさわしいポジションにいたんです。好きでいたわけじゃないのにさ‥
当時のわが家庭は、時代柄、平日は父は夜中まで仕事。住む場所は故郷から離れた地域で核家族状態。そのため、基本、母のワンオペ育児状態でした。
子供の私は一日中、母と密室でずっと一緒にいるわけです。
そんな環境下ですから、私は物心ついたころから、必然的に母のいう事を、ぐちだって何だってをずーっと聞かされ続けることになりました
いいえ。物心なんてつくまえから、どうやら私は奴らのけんかの仲裁なんかをしていたようです‥
まだ言葉も発しないほど幼い子供に、けんかの仲裁させるっておまえらおかしすぎるだろ‥
しかもそれを後に「ほっこりいい話」みたいに話してんじゃねえよ‥
私がいかにごく幼い頃から家庭内で神経を張り詰め、親のために必死に動き、エネルギーをガスガスと削られて生きていたか?
子供をそうやって親の道具として使用することに対して、毒親は悪いとも何とも思っていないということを証明する、悲惨なエピソードでしかないですよね‥
愚痴っぽい性格だった母
母は私に父の悪口を言うだけでは飽き足らず、ひまさえあれば友人知人に長電話をかけたり、家に人を読んでしゃべったり、井戸端会議で人の噂話や愚痴、悪口を延々と話していました。
愚痴や陰口や噂話がだーいすきな人だったようで、暇さえあればひそひそひそ、と。
暇かよ?
もっとやることなかったの‥?
付き合ってた人迷惑だっただろうな
毒母にはよく、
あたしはあんたたち子供のために仕事をやめて、専業主婦になったのよ
と恩着せがましく言われることが多かったのですが、私が子供の頃を思い返すと、母は子供をテレビの前に置いて「大人しくテレビを見てろ!」と何時間も子を放置したり、無駄に習い事をさせて家から追い出していました。
休日なんかは、ショッピングモールに子供だけ放牧ですよ?
子供は邪魔だとテレビや習い事やモールにおしつけ厄介払いして、友人知人にぐちをこぼしたり噂話にいつも夢中だった母。
「あたしはこどものために仕事辞めたの!」という言葉と違いすぎる現実。
毒親が得意とする、嘘のきれいごとで自己正当化を塗り固める発言だったんでしょうね。
話がずれましたが‥
家に招いた人に対してや、電話口で、くるくると表情を変えながら、いろんな人のうわさ話や悪口や父の悪口などを一生懸命大声で話していた母の姿を思い出します。
母がぐちを私に大量にこぼしたのは、ただ父が悪いから、という一つの理由だけでなく、とめどない愚痴を言わないと生きてられない!という母の性質もあったのでしょう
長くなってしまったので、その2に続きたいと思います。
その2では
- 母の愚痴を聞き続けた幼い私は、どんな子供だった?
- さんざん愚痴を言った後、自分の行動を必死で正当化しはじめる毒母
- 父親の悪口を聞き続けた私は、やがてどんな人間になった?
こんなことを書いていきたいと思います
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