前回書いた記事のとおり、私は人付き合いで失敗をしました。
なにが一番の失敗か?というと…
私は人と仲良くなることにすっかり疲れ果ててしまい、人との距離を縮めることへの恐怖を感じるようになってしまったんです
あれ以来、お茶しておしゃべりするような人付き合いは、全然できていません。
人付き合いを避けて通っています‥
でも、もし今後の私に、出会いが生じて、仲良く人付き合いをする機会が巡ってきたとき。
今度は、ここまでダメージを受けることなく、私も相手も、お互いが穏やかにいれるような関係性を築けるようになりたいんです
そのためには当時のAさんとの付き合いを振り返り、何が私に、こんなに疲労や恐怖を負わせたのか?をじっくりと探っていきました。
すると‥
私には、人と接するときには、このような考え方や行動のクセがあったことに気づきました。
- Aさんと仲良くしていた時。
実は、心の中で違和感を感じるポイントがたくさんあった - でも、たとえ違和感を感じても、してはいけない”自分の本心スルー”を繰り返していた
Aさんと会って仲を深めていた時。
いま思えば、気になるポイントが、いろんな場面でぽつぽつと心に浮かんでいたんです。
でも、当時その場で、自分の中に、そんな気持ちが発生している事をしっかりと認めずに、それどころか押し殺してしまったんですよね。
気になるポイントに対して、Aさんに直接「それは違うよ」「そういうことはたとえ冗談でもやめてほしい」と上手に伝えたり、
もしも、あまりにもAさんとは心も物理的にも距離が近づきすぎている‥と感じた時は、もう少し距離を取ろうという判断や行動をすることができなかったんです。
感情を押し殺し、相手の言動をそのまま受け止め続けてしまったことで、私はどんどん疲労を深め、ダメージを負ってしまっていたんです
今考えると違和感を感じていた事
Aさんとのやりとりの中で、「当時は特別に触れることなくサラッと流していたけど、心の中では違和感を感じていたこと」が、実はたくさんあったんですよね。
それを書いていきたいと思います
植え込みに隠れて待ち伏せ‥
私が通勤した初日。
Aさんとは偶然に玄関で会ったときに、ごく自然に話しかけてくれたと思っていたのですが‥
その後、Aさんから
あの日ね、ティーコとすぐにでも話したくて、
私、仕事さぼって玄関入り口の植え込みに隠れてまちぶせしてたの!
とニコニコしながら言われたんです
それを聞いた瞬間「え、怖!」という思いが飛び出したのですが‥
私は即、その怖いという感情を押し殺してしまいました。
それを
いや、ここまで私と仲良くしたいと思ってもらうのはありがたいことなんだよ。
きっと私が知らないだけで、普通ならよくあることなんだよ‥
という考えで上書きしてしまったんです‥
でもやっぱり、仕事をさぼってまで待ち伏せされるってなかなかないですし、(少なくとも私は40数年生きてきて一度もしたことがありません。)
怖いですし「え?」ですよね‥
人前で過剰にいじられる
Aさんと二人だけでカフェなどにいるときは二人で楽しく会話するのですが、距離が縮まるにつれて、Aさんは、職場の人たちの前では、まるで芸人のツッコミ役のように、私をハード目にいじるようになりました。
私を指差しながら「こいつばかなんですよ!」
私が何かを言うと、「あんた何言ってんの!」
職場の人たちの前で、こんなふうに過剰に私のことをいじり、笑いものにするんです
これも当時、親しくなって気を許したからこその態度なのかな?という思いと、乱暴な言動で人前でいじられることへの不快な気持ちが同時にわいてきたのですが‥
私は、やはり嫌だな、という感情を押し殺してしまいました。
Aさんが不快になることや職場の雰囲気を壊すことが怖くて、「そのいじりはやめてほしい」と、自分にわきこった不快感を、その場で直接声に出して言う事はできませんでした。
自分の不快よりも、自分の不快をはっきりと伝えることで、Aさんが不快になること、周りの雰囲気が悪くなることが怖かったんだと思います
人の悪口、私の悪口
私が担当の社員さんと協力しながら仕事をすることに対して、Aさんはよく
みんなあの社員を気持ち悪いって言ってるよ?
あんたよく付き合えるね!
ということを私に言いました。
え‥?
仲良いというか‥
担当の人とコミュニケーションを取りながら仕事をするのは
普通のことではないのかな?
それとも、私が長年人と関わっていないから、
人との関わり方が何かおかしいんだろうか?
「この人気持ち悪いからしゃべらない」を会社で仕事をする上でやってしまえば、仕事に支障が出るのではないかな‥?という疑問と、
でも一方で、私は長くうつ病で家にひきこもっていたため、人との関わり方にはなにかおかしさがあったのかな?と自分の姿勢を責める両方の思いが交差してしまい、私は混乱しました
それから、Aさんはときどき、職場の人が私の悪口を言っていた、ということと、悪口の具体的な内容を私に伝えてきました。
職場の◆◆さんね、~~ってあなたの悪口言ってたよ?
ひどいよねー
私が耳にすると不快になることを、ニコニコしながらしてくる…
これにはさすがに驚き、とても嫌な気持ちになったのですが‥
人が悪く言っていたことをわざわざ告げ口してくるという行動様式は、かつて毒家庭でよく毒母にされてきたことだったため、
「不快ではあるけど、恐らく人間にはよくある行動なんだろう」と判断してしまい、家庭でそうしていたように、表情は能面で「そうなんだ。そういうこと言う人がいるんだね」とスルーしてやり過ごしてしまったのですよね‥
今思い返しても、私の悪口を具体的に報告してくるって、あれってどうなんだろう?と思いかえしてモヤモヤします。
私はそれを聞かされて本当に不快だったのだと思います。
だけど、当時の私は「それは聞きたくないからやめて」と、即、不快であるという表明と、私が悪口を言われていたということを話すのをやめてほしいという主張を、Aさんに対して直接出来なかったんですよね
エピソードから読み解く「私はどうしてうまく人と付き合えなかったの?」
これまで書いてきたエピソードから、私はどうして、私も相手も快適な人間関係を築けないのか?その理由を考えてみました。
すると、やはり、毒親家庭でしみついてしまった行動様式が、私の考えや行動に、大きな影響を及ぼしていたんですよね
毒親の元に生まれ、長年暮らすことで「変な人間」に耐性がつきすぎている
毒親育ちというのは、生まれ育った場所で「親子関係」というきわめて濃厚な人間関係を築いた相手が、毒親という超絶変な人だったので、変な人への耐性がめちゃくちゃつきすぎているんです‥
だから、毒親育ちというのは、ちょっとぐらい変な人がいてもそうそう変な人認定しませんし、変なことや嫌なことをを言われてもスルーしがちです。
むしろ、人っていうのは変なもの、変なのが普通、くらいの認識になっています
だから、変なことを言ったりやったりする人に出会っても、「これくらい普通の人だよね」とするっと受け止めてしまうんです
境界を踏み超えられることに慣れてしまっている
毒親育ちは、幼い頃から毒親によって、自分の大切な境界線をいとも簡単に踏み超えられてきているため、
自分のプライバシーや境界線に侵入されることや、自分を踏みにじられることに、ダメな意味で慣れてしまっているんです。
触れてほしくないことに触れられたり、言いたくないことをしつこく聞かれて、たとえ不快感を覚えても、笑顔を作ってスルーする癖がついてしまっている。
昔から親に侵入されるたび、そうするしかなかったからです
「その話は嫌だからやめて」と不快を表明したり、そういうことをする人自体を拒否し、距離を取る判断をすることは、本当に難しいんですよね。
毒親育ちに何を言っても拒絶もせず、黙ってスルーしている姿を見て、
恐らく付き合う相手は
この人にはこんな態度をとっても自分となかよくするんだな
この人にはこんなひどい事を言ってもなんか平気そうだ‥
じゃあもっとひどいこと言っちゃおう!
このように、毒親育ちを粗末に扱う態度をエスカレートさせるのではないかと思われます。
実際、Aさんも、私と会う回数が増えるにつれ、私に対する言葉遣いがどんどん荒れ、雑なものを扱うような風に変化していきました。
そうなってもまた、私は違和感を感じながらもスルーしてしまい、付き合いを続けてしまうんですよね‥
毒親育ちがひどいことをされても、かつての毒家庭で培われてしまったスルーや我慢癖が出てしまうことによって、ますます傷つき、ストレスをためる悪循環が起こってしまうのだと思います
「こんなこと考える自分がおかしいんじゃないかな?」と、自分のせいにしてしまう
生まれ育った毒親家庭では、毒親から常に、自分の言動や人格に対する否定や罵倒をされ続けてきたので、毒親育ちは自己肯定感がうまく育っていません。
そのため、なにかあるとすぐに「私が悪いのかな?」と自責として考えてしまいがちなんですよね
例え相手が変な言動をとっても、「これを変だと思う自分が変なの?」「これは、普通の人にとってはきっと普通なんだ」という考えがわいてきてしまい、自分のせいにしてしまうんです
久しぶりの人付き合いや仕事に浮かれてしまい、大きな疲労に気づけなかった
私はうつ病と診断されてしばらくの間、療養が必要となり、薬を飲んで家でじっと過ごしていました。
そこにうつ病症状の緩和、就職、人とお茶する…なんていうステイホーム療養期間とはまったく逆のシチュエーションが次々と到来して、私はうれしさのあまり浮かれていました。
浮かれるあまり、自分の心身の状態を含めたさまざまなことを、冷静に判断するのが難しくなっていたんですよね。
心身に無理を感じていても、その気持ちを無視して、新しい環境にいることを優先してしまっていたんです
でも当時、仕事が終わった後や、楽しかったはずのAさんとのお茶や食事のあと、私はたびたびぐったりと疲れて横になっていたんです
休日はベッドから出られない日も少なくありませんでした
元々人付き合いが苦手な人間が突然仲良くなった人と長時間おしゃべりをしたり、長く家で療養した人が新しい仕事に就いたりを一気に行えば、それは疲れて当たり前です
仕事の契約が終了し、そしてAさんとの付き合いも疎遠となった後。
私は張り詰めていた気がゆるみ、そしてこれまでの疲労が一気に体にきたのか、それまで落ち着いていたうつ病が悪化してしまいました
主治医からは「ちょっとしばらくはお仕事はしないで休養してください」という哀しいドクターストップがかかってしまいました‥
まとめ
Aさんとの関わりとその失敗を通して、私は、自分と相手がお互いに快適な距離感を取って人と関わることが本当に涙が出るほど苦手であり、
そして、目の前の人は今の私にとって、仲良くできる人かそうではないか?距離を保ったまま接するべき人であるか否か?の判断すら困難なんだな、ということを痛い思いをして思い知ったんです
賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶという有名な言葉がありますが、経験に学ぶといっても、こんなふうに、チャレンジしてダメージを受けて持病が悪化して‥という経験を繰り返していたら、正直身が持ちません。
Aさんとのやりとりを通して学んだこととは、
出会った目の前の人に対して、うれしくなってすぐに仲良くなるんじゃなくて、
- 私は人と関わることがうまくないんだから、人と接するときは、相手をよく見て、注意深く距離感を探っていかなきゃならない
- 人とのやり取りの中で感じた不快や違和感を押し殺さず、少しずつでも上手に伝える訓練をしていきたい
- そうじゃないと、身が持たないよ!
こう強く思いました。
Aさんとの出会いと一連のやりとりの経験は私にとってはあまりに強烈すぎて、これ以降は、お茶をするようなレベルの仲良し関係を築くことはこわくなってしまい、できていないのですが…
この記事を書いて当時の出来事の整理をつけることで、今後もしも仲のいい人が出来た場合には、以前より少しでも、自尊心や自分の感情を大切にすることと、人と仲良くすることを両立できるような自分になっていたいな‥と今は思っています
コメント
ティーコ様のブログ拝見させて頂きました
あぁそうなのか 今までの違和感は‥
と腑に落ちました
50歳を過ぎても 人との付き合い方に悩まされて 時々 早く死んで楽になりたいと感じます
1人でいると心からホッとします
ありがとうございました
ゆっぴぃさま
ブログをお読みいただきありがとうございます
人付き合い、本当に難しいですよね。「もうそろそろ上手にできるかな?」と踏み出すと
エネルギーをこれでもかというほど消耗して疲れてしまう、の繰り返し状態です
私も未だに一人でいる時間が一番楽です。
これからも体験や考えたことなどをいろいろブログに書いていきたいと思っていますので、よかったら覗いてみてくださいね