毒家族の話(母)

毒親育ち

私の母は、非常に不安が強く、そして不満をたくさん抱えた人でした

その不安や不満は、長女である私にぶつけてきました

私がごく幼いころからです

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不安が大変強い人だった

私の母は、大変不安が強い人でした

私に少しでも体の不調があると、ヒステリー状態になります

たとえ私に体調の不良がないときでも、「あなた、こんな体の症状はない?これは重大な病気の症状なの」としょっちゅう私の体に不調がないかを確認し続けます

少しのことで大きな不安になる性質を持っていたようで、例えば、父の帰りが少しでもいつもより遅いと、「お父さんが帰ってこない!まだ帰ってこない!」と叫びながら家じゅうをうろうろしはじめます

幼い私は、その母の様子を見るだけで大きな不安でいっぱいになったものでした

また、これから起こるか起こらないかわからないことをあれこれと心配し、「ティーコちゃん、こうなったらおかあさんどうしよう」「ああなったどうしたらいいんだろう、怖くてしょうがない」というふうに、次々と彼女の内部から湧き出てくる不安を、しょっちゅう私にぶつけてきました

母からは、このような不安や心配をつねにぶつけられながら育ってきたため、幼いころから極度に不安の強い子になりました

まだ幼児の頃、風が強い中洗濯物が干されているのを見て、「洗濯物が強い風で飛ばされて、お母さんがおかしくなったらどうしよう」と本気で心配していた記憶があります

友達が自宅でやっていたように、家具に落書きしたり、シールを貼ったりしてみたかったのですが、そんなことすれば母がどんなに騒ぎまわるか想像するだけで怖かったので、落書きもシールを貼るような普通の子供がするようないたずらは一度もしたことはありませんでした

ちなみに母が不安をぶつける対象は私のみだったので、は母からのネガティブな攻撃は一切受けずノーダメージでした

不仲の父をはじめとする、周りの人への不満や愚痴を私にこぼしつづけていた母

また、母は周りの人への不満が常にたくさんあり、いろんな人の愚痴や悪口を私に言って聞かせました

私にだけ言って聞かせましたので、ここでも妹はノーダメージです

母のパート先の人の悪口はほぼ毎日聞かされていたため、母のパート先のメンバー構成やその性格や出身地、全員の家族構成などは小学生の頃にはすべて把握していたくらいでした

不仲であった父の悪口は、巧妙な手口で聞かされていました

母はどうやら、「子供には、自分の父親である夫の悪口を聞かせてはならない」と頭ではわかっていたようです

そのため、父の悪口話の初めには

「わたしはね!子供には夫の悪口を言って聞かせてはダメだってわかってるのよ!」という枕詞をちゃんとつけるのです

これは「私は本当はわかってる、だから私は悪くない」と自分自身に言い聞かせるための儀式だったのでしょう

そしてその儀式終了後、母からは堰を切ったように父の悪口が大量に私に浴びせられるのです

父は、会話中に少しでも彼が気に食わない意見をされると、突然激しく怒り出す性質を持っていたので、まともな話ができない人でした

キレられるのが恐ろしく、父にはいつも、腫れ物に触るようにして接することを要求されました。(溺愛されていた妹は除いて)

話がまともにできない不仲な男を夫に持ちながら、母はいつも、いわゆる育児のワンオペ状態。おそらくたくさんのストレスがたまっていたのだと思います

しかも外面がよく、世間体を大切にする人だったので、身内のネガティブな話、ましてや自分の夫の悪口を外の人に聞かせるなどというのは彼女にとってありえないことだったのでしょう

必然的に、母が吐き出す悪口のごみ箱係は、この家の長子である私になったようです

私だけには何事も優秀であることを強いた

理由はわからないのですが、どうやら子供は母にとっての「自慢の種」でなければなかったようです

妹は見た目がよく、かわいがられていたので性格もまっすぐでかわいげがあり、存在するだけで自慢の種となり、そのままの姿で許されていました

問題は私だったようです

私は妹と違って、見た目が悪く、性格も気が強くて全くかわいげのない子供でした

なので、母はこの醜くかわいげのない長女である私を自慢できる子供に仕立て上げなければなりません

そこで母は私を、優秀で自慢できる子にする、という方針を打ち出したようです

具体的には、毎日遊ぶ暇がないほどの習い事を山ほど課され、その上、学校の成績も常に上位ではないと怒鳴り散らされます。

普通や不出来の私では存在が許されなくなったのです

習い事もコンクールなどで常に結果を出し続け、成績もコンスタントに上位を取り続けなければ、容赦ない叱責と、追加の修練の指示、場合によってはより厳しい習い事教室への変更塾の追加受講が決まることもあります

ねじこまれた新しい塾には母が私とともに教員室に乗り込み、「この子は本当にバカでどうしようもなくて私は困っているんです!先生方には本当にご迷惑をおかけしますが、このバカが少しでも治りますように、毎日居残り特訓して下さい!どうぞよろしくお願いします!」と部屋中に響き渡る大声であいさつをしました

その後母は颯爽と去り、一人残された私のことを、先生たちは驚きと気の毒そうな表情で見ていました

私は恥ずかしさといたたまれなさで、顔を上げることができず、頭をうなだれたままその場に立っていました

このまま、消えていなくなってしまいたかったです

「課せられたものに対して、すべて優秀な結果を出さないと、お前はこの家にはいられないんだよ」という強烈なメッセージを、母からは常に送られてきていました

とにかく結果を出さなければならない、優秀でなければ生きていてはならないという強い思い込みは、このころから醸成されていたように思います

そして、この家から出るには、自立して一人で生きられるようにならなければ、この地獄からは抜け出せないということも…

潰された本来の私、無駄だった習い事の数々

本来の私は、一人で空をぼんやり眺めながら楽しく空想したり、家でのんびり絵を書いて過ごすのが好きな子供でしたが、その、本当の自分は存在が許されず、ごく初期に親によって潰されました

一度、母にお願いしたことがあります。

「お母さんと窓辺で景色を見ながらおしゃべりしたい、二人だけでゆっくり過ごしてみたい

母にもじもじとそう言い終わるかどうかのタイミングで「うるさい!そんな暇ない!」とピシャリと断られ、私の夢はあえなく断たれました

それ以降、自分の気持ちを母に伝えることもやめ、自分の本当の気持ちは押し殺すことにしました

そうしないと、生き延びることができないと悟ったためです

ちなみに、当時やらされていたたくさんの習い事は、何一つものになりませんでした

それどころか、習い事に関係するものを目にするだけで当時の悪夢がよみがえり、具合が悪くなるので未だに接触することを避けています

なぜか大人になった私にべったりと粘着してくる

私が成長するにつれ、母はなにかにつけて私にべったりしてきて、一緒に行動したがるようになりました

子供の頃は、私がそばによるのも面倒そうで嫌そうだった母でしたが、心境の変化か、はたまたただの気まぐれだったのか。真相はわかりません

子供の頃、そばに寄った私を、甘えるな!さっさと課した課題をやれ!と蹴散らしていた母とはまるで別人のようにベタベタと私に粘着してきます

私は、若干の気持ち悪さを感じながらも、この母の要望に応えることが、世間でいう親孝行なのか、と思いながらその要求にこたえてきました

しかし、私にも人生があり、母のわがままに応え続けると、自分の人生がおろそかになってしまいます

このことも後述しようと思っていますが、ある時から、母の要求だった「べったり母娘」の関係は、私から拒絶しました

思い出を書き散らしてきましたが

母との思い出をあれこれ書き散らしてきましたが、まだ彼女との関係や過去の出来事は、自分の中で消化しきれていないことがたくさんあります

今後また、まとまったら文章にするという作業を繰り返して、心の中に溜まったままのあれこれを整理していきたいと思っています

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