毒親育ちと、普通親育ちの違いとは?(2)

毒親育ち

(1)の続きです

引き続き、毒親育ちと普通親育ち、その絶望的な違いを書いていきたいと思います

人生が進む毎に、その違いは際立っていきます…

スポンサーリンク

人生が進むごとに、普通親育ちと毒親育ちの差は開くばかり

これまで見てきたように、自分の持つエネルギーを使うことひとつとっても、

  • 自分の人生が充実するためだけに使用することができる普通親育ち
  • 毒親によって生きてるだけで消耗し続けてしまい、やっとのことで命を維持している毒親育ち

同じ人間に生まれながら、この違いです

人生が進むごとに、差がついてしまうのは明白です

人に対する考え方、人との関わり方の大きな違い

さらに圧倒的な差がつく要因に「人との関わり方の違い」があります

これは人生に与える影響が、何よりも大きなものだと思います

人を信頼できる普通親育ち

普通親育ちは、道を進みながら、出会った人とよい関係を作り、助け合うことができます

なぜなら、生まれて初めて出会った人間(=親)がとても感じがよかったため、人が好きで人を信頼できるからです

そのため、出会う人たちにも自然と信頼感を持ち、お互いいい気持ちで関わることができます

人は一人では生きられない、とよく言われます

たった一人では無理でも、人々が協力することによって、大きなことを成し遂げることができます

1+1が2にも5にも10にもなり得ます

普通親育ちはごく幼い頃から、人との出会いを大切にできて、人と協力しながら進み続けることをごく自然に行うことができます

これまでも順調に進んでいた道がますます順調に、どんどんパワーアップしながら進むことができます

成長が進むと、やがて、持っている力を周りに分け与えることも自然にできるようになります

普通親育ちからサポートやギフトをもらった人々は、普通親育ちに対してはもちろん好感を持ち、自然と協力や助けあいをすることができます

普通親育ちは周りの人たちと共に、どんどんと成長をしていくのです

活字にするだけでもまぶしくて正視できません

人を恐れ、信用できない毒親育ち

一方毒親育ちはというと、生まれた瞬間から毒親にひどい目にあわされ、人間全体にネガティブなイメージを植え付けられてしまっています

小さいころから毒親からの攻撃、時には命の危険にさらされ続けてきているのですから、人間を心の奥底で恐れ、憎むようになるのも無理はありません

例えうまく付き合おうとしても、心の奥底では人が怖くて大嫌いなのですから、うまくいくわけがありません。途中で脱落してしまいます

他人と助け合うなんて論外です。他人に気を許したらどこで足をすくわれるかわからない、そう思っています。

なぜなら、身近な人間であった毒親から、ずっとひどい目に遭わされ続けてきたからです

このように、毒親育ちは、生まれてからずっと受けてきた毒親からのネガティブな言動により、人間に対して根深い不信感や猜疑心を持ってしまっているため、

人と近い距離で関わりを持つことに恐怖や違和感を持っています

ごく幼い頃から人が信じられなくて、一人でいることが一番楽だと思ってしまっているのです

人を信じられず、うまく接することもできないと、いつも一人でなんでも解決しようとしてしまいます。人とうまく協力する仕方もしらず、誰かと何かを楽しく行うという体験がないからです

自然と遠回りや余計な苦労の多い人生となってしまいます

たまに、こちらに手を差し伸べてくれる心ある人が現れますが、そのような心ある人も信じることが出来ず、拒絶してしまいます

  • 周りの人たちと助け合いながら、どんどんと成長が促進される普通親育ち
  • 毒親の影響で人を嫌い、恐怖し、人に心を閉ざして一人で生きる毒親育ち

人生の歩みを進めるごとに、得られるものや人生の充実度に差がついてきます

「同じ人間」として扱われる絶望

ここまで列記してきたように、普通親育ちと毒親育ちは、生まれた時点での大きな違いがあります

そして、人生を進むごとに、その違いは大きくなります

しかし困ったことに、端から見ればどちらも同じ人間に見えてしまうのです。自分達もそう思っているし、外から見る人たちもそう思っています

なぜ自分は普通にはできないのか?毒親育ちの苦悩

毒親の影響でこうなってしまったことに気づかない(気づくことを許されない)毒親育ちは、そこで悩むわけです

「みんながごく普通にできていることが、なぜ自分にはできないのだろう」

毒親育ちは、なぜか普通のことが普通にできない自分を、じぶんのせいだと考えがちです

それが実は、生まれ育った環境という不可抗力のせいであるにもかかわらずです

無邪気な普通親育ちの悪意なき疑問

一方で、普通親育ちは、自分と違って、何をするにも自信がなく進みの遅い毒親育ちを見て、無邪気に疑問を呈するのです

「なんでそんなことできないの?こんなの簡単じゃない?」

「普通もっとがんばれるでしょ?どうしてそこで立ち止まってしまうの?」

毒親育ちをえぐる文法の違いー親孝行

「親孝行」、これは普通親育ちと毒親育ちには、それぞれ全く受け取り方が違います

普通親育ちはごく自然に、このように考えることが出来ます

「親は、いつも子供のことを考えてくれて、本当にありがたい存在。
これからは恩返しの親孝行をしたい」

一方で、毒親育ちは、生まれてから親がらみのことで消耗に消耗を重ね、もう精も魂も尽き果て、なにも出てこない状態です

親孝行は義務感で仕事のように行っています。そこに心はありません

親に対してこれ以上なにもすることができず、親孝行どころか親と疎遠にする子供もいます

自然な心で親を大切に思うことのできる普通親育ちは世間で立派な人扱い。

一方で、同じような自然な親孝行ができない毒親育ちは、子供じみたわがまま人間扱いされます。疎遠まで至らない毒親育ちはそれを恐れ、義務感で心を殺しながら親孝行をするのです

毒親育ちが「義務的な親孝行」を重ねると

ここで毒親育ちが毒親と決別し、自分の人生を生きた場合はまだ救いがあります

問題は、ここから無理に無理を重ね、親孝行をし続けた場合の毒親育ちです

毒親の増長

毒親は、自分の子供が親孝行したがっていることを嗅ぎつけると、より増長して、もっとあれしろ!もっとこれしろ!と、子供に対する要求が増えていきます。

ここも普通親とは違うところじゃないでしょうか

普通親はこのような場面で、「私たちはいいから、あなたの力は、あなたのために使いなさい」とあくまで子供ファーストで考えてくれますよね

毒親というのは、人生で不安や不満がいっぱいたまっていて全く満たされておらず、かつ自分で自分の飢餓を満たすす術を持ちません

底なしの飢餓感で覆われているため、欲に限りがないのです

また、自分で自分を満たす術を持とう!なんていうことはまず思いません。なぜなら、目の前にいる言いなりになる子供から吸い取ったほうが楽で早いからです。

満たされない気持ちやもの、見栄えなどはすべて子供に要求し、搾り取り続けます。そしてそれはどんどんエスカレートします

限界を迎えた毒親育ちはどうなるか?

やがて、毒親育ちは限界を迎えます

限界を迎えた毒親育ちの発露の仕方・・・その形は様々です

うつ病をはじめとするメンタル疾患の発病だったり、心身疲れ切っての引きこもり、一生毒親とは縁を切る絶縁。もしくは最悪の形として、毒親に手をかけてしまうこともあり得ます

子が親を…という、衝撃的で痛ましい事件がたびたびニュースで報じられます

加害者となった子供のバックグラウンドを調べると、これは恐らく毒親育ちだな…とわかってしまうことも少なくありません

毒親と毒親持ちには、このような、だれも得をしない、バッドエンドがつきものなのです

普通親とその子供の関係に見ることのできる「みんな笑顔でハッピー、大円団」とは対極にあります

これでも、「みんな同じ人間♪」なんて言えますか?

これまでの、違いの羅列を見て、まだ、「みんな、おんなじ人間だよ!」なんて、言えますか?

人間たるもの、親には親孝行することが当然って、言えますか?

言えないですよね…

毒親育ちは、生きてるだけで疲れ切っています。親に対しても、なんなら自分の人生すらも歩く気力がわいてきません

そこを世間は「いい年してなにやってるんだ」と責めます

疲れ果て、周りに責められうなだれる毒親育ちのその横を、普通親育ちは、仲間となったたくさんの周りの人たちと一緒に、幸せに走り去っていくのです

果たして、普通親育ちとこのような大差をつけられ、茨の道を歩く毒親育ちに救いはあるのか。

現在進行形で茨の道を歩いている私が、自分なりに考察した
「毒親育ちにとっての救われとは?」を、次の記事にまとめました

毒親育ちは、どう生きていけばいいの?
毒親育ちと普通親育ちの残酷なくらいの違いをこれまで書いてきました。それでは、毒親育ちには救われはないのでしょうか?この生まれながらにハンデばかりの人生をどう生きたらいいでしょうか?自らの体験から考察しました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました