「普通家庭育ちの人が気軽にこぼすグチ」にうまく共感できなかった毒親育ち その1

毒親育ち

毒親育ちは、毒親が作ったひどい家庭を必死で生き延びるための、サバイバル的な価値観を植え付けられました

その価値観は、多数派である社会の人たちとの価値観とは全く違います

そのため、社会に出ると、必死にその違う価値観に慣れなければなりません

でも、その新たな価値観に出会うたびに違和感を感じ、それでもそこに慣れるように自分を仕向ける日々というのは、元々疲れている毒親育ちにとってはエネルギーを消耗し、とても大変なんです‥

社会に出て、周りの人たちとの雑談ひとつ、そしてなにげなくこぼすグチにさえも、「!?」と大きな驚きや違和感を感じながらも、そこに必死で合わせながら生きなければならない…

社会で様々に戸惑う毒親育ちについて、書いていきたいと思います

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毒親家庭を”サバイブ”した毒親育ちが、社会で「違う価値観」を持つ人たちに出会う

以前、「毒親育ちは、”生まれ育った毒親家庭の特殊ルール”に慣れてしまうために、社会一般での常識とかけはなれてしまう」という記事をかきました

毒親から心身への暴力を受け続けることで、価値観はずれ、暴力に鈍感になる毒親育ち
毒親育ちは毒親から肉体的・精神的に暴力を振るわれ続けるため、暴力が身近です。しかし社会の価値観はそうではないため、衝突の度に自分の価値観を変えながら生きる必要があります。価値観が変えられた部分、変えられず今も残る部分を記していきたいと思います

こちらの記事では”暴力”を例にとって、それにまつわる毒親育ちが普通とかけはなれてしまう悲しいエピソードを書きましたが、

毒親育ちは、生まれ育った毒親家庭内の変な価値観を普通として育つため、自分の意志とは関係なく、

いつのまにか「一般社会での普通」とは違うものの考え方が身についています

毒親育ちは運悪く、自己中で暴力的、子供を私物として振り回す毒親たちが棲む家に生まれついてしまった。

そこで生き延びるためのサバイバル的なものの考え方が心身にしみついてしまっています。

この、猛獣(=いつ何をしてくるかわからない毒親)がうろつくジャングルを必死でサバイブするような価値観というのは、現在の平和な日本では当たり前にごく少数派です

そんな毒親育ちは、外の世界である学校や職場で”多数派である普通親育ち”と関わり、”彼らにとっての普通”に触れるたびに、いちいち「え?」「ん?」という強い違和感を感じてしまいます

社会でたくさんの人と関わることで、自分の常識や考えやふるまいは、どうやらみんなのものとは違うことに気づくんです

違いに気づいても、のんびりと驚いている暇はありません。

社会になじむために、みんなが持つ価値観になじむために、自分で自分を矯正を重ね努力を重ねる必要が出てきます

しかし‥おなじ人間と言えども、まったく違う価値観で生きてきた人と人との間にはたくさんの違いや壁を感じ、その度に理解に苦しんだり、戸惑うことばかりなのですよね‥

普通親育ちのこぼす愚痴にいまいち共感やいい返事ができない

毒親育ちがなんとか社会にとけこもうとする中で、普通家庭に育つ人たちと仲良くなって話をするようになると、違和感を覚える場面に突き当たることがたくさんあります

たとえば、仲良くなった友達と集まり会話をする、という何気ないシーンで、

普通家庭育ちの彼女たちがこぼす愚痴の内容に、私はいまいち感情移入できないことが多かったんです‥

彼女たちは例えば、

彼氏が私の話を真剣に聞いてくれない!

とか、

彼氏が誕生日を一緒に祝ってくれなくてむかつくし悲しい!

という愚痴をよくこぼしていました。

ほかの周りの子達はその話を真剣に聞き、「話、ちゃんと聞いてほしいよね!」「それはさびしかったよね」「わかる、私もそうされてむかつくもん!」などという返答をします。

毒親育ちの私は、当時決して表情や言葉には出しませんでしたが、

彼女たちが語るこの愚痴の内容が、

真剣に愚痴るほどのことなのかな‥?

と考えてしまうのですよね‥

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なぜ私は、「普通家庭育ちの人のグチ」に共感することが難しかったのか?

私がどうして彼女たちの愚痴をいまいち理解しきれなかったのか?

それは、私が生まれ育った毒親家庭と彼女たちの生まれ育った普通親家庭の違い、そこで培った価値観の違いが存分に影響していたといえます

わが毒親家庭は、毒親が幼い子供を暴言や暴力で支配するような環境でした。

暴力にまみれた環境で生きることを強いられてきたために、そこ培われてしまった価値観とは、「生き延びるか?もしくは毒親にぐちゃぐちゃに破壊される(=心身の死)か」という極限のものです。

白黒思考といわれる、極端なものの考え方と近いものがあると思います

こちらは、白黒思考にとらわれた私が陥った、人間関係における行動パターンを記事にまとめたものです↓

この毒親家庭で強制的に持たされた価値観で、友人たちの愚痴の内容を解釈してしまうと、

誕生日忘れられる、話聞いてもらえない。
このことで、心身をボコボコにされたり命が危険になるわけじゃないのに。
そんなに大騒ぎすることじゃないと思うんだけどな‥

となってしまうのですよね‥

決して愚痴の内容がどうとか、レベルがどうとかそういったことを言いたいわけではありません。

毒親育ちは生まれてからこれまで、「毒親から命を脅かされる」という極限の環境で生きることを強いられていたために、その思考や感覚も極限のものとなってしまっています。

そうなると、普通の環境で生きている、普通の人がこぼす普通のグチというものに感情移入することは、とても難しくなってしまっているんです

毒親育ちと普通親育ち。

生まれ育った環境があまりにちがいすぎるために、愚痴のたった一つさえ、共有することやわかりあうことが難しいんです。

例えるならば、

  • 毒親育ち=常に猛獣に襲われる危険と隣り合わせの原始人
  • 普通親育ち=文明の発達した現代人

現代人の集まりに放り込まれ、その話の内容が理解できずに困惑している原始人というのが、毒親育ちの立ち位置といえるでしょうか‥

こちらの記事の続き・その2では、まったく違う価値観を持つ普通家庭育ちに戸惑いつつも、それでもみんなの悩みや考えている事を理解し、何とかとけこんで仲良くなりたかった毒親育ちの私のかつての苦闘、

そして普通家庭育ちが何気ないことを愚痴る、この「愚痴」というものは実は自分にとってもまわりにとっても良い作用をもつものなのかもしれない‥と遅まきながら気づいたこと、どうしてそう思ったの?ということなどを書いていきたいと思います

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