その1 からの続きです
普通家庭で育った人たちとは
たとえ心の底からわかりあえなくても、
なんとか仲良くしたい。
でも、疲れてきたな・・
毒親育ちは、一般社会で出会い、自分と仲良くしてくれる普通家庭育ちの人たちと友人関係を続けたい‥という強い思いで、
みんなの相槌の打ち方や、話の流れで作られる雰囲気を必死に読み、同じようにふるまうことで、この心優しいおだやかな人たちで構成されたグループにいられる努力を重ねます。
でも‥やっぱり無理って長続きしないんですよね。
みんなに溶け込む必死の努力に、だんだん疲れてしまいます
自分の辛いこと・苦しいことを、愚痴として人に話すなんて、毒親育ちにはそんな習慣がなかった。
少しでも弱音を吐くと、毒親からは罵声や鉄拳が飛んでくるわけですから、黙って耐える習慣が身についてしまっています
普通家庭育ちの人たちはまったくの逆で、自分の愚痴を愚痴として認め、それを周りに吐き出して聞いてもらう。
そんな戸惑いと蓄積する疲労のの一方で、
私は、彼女たち普通家庭育ちが目の前でごく当たり前のように回す、この愚痴のサイクルを間近でずっと見ているうちに、
実は愚痴というのは、自分と周りの人のことを、それぞれ風通しよくスムーズにする役目があるのかもしれない、という気づきを得たんです
まぁそんな気づきを得たところで‥
長年不満に対する我慢や無言を強いられてきた毒親育ちの私には、それを実生活にフィードバックすることは困難だったのですけれどもね‥
「あなたは何か愚痴や悩み事はないの?」問われて戸惑う毒親育ち
同世代女子たちのおしゃべり=メインが愚痴であることに戸惑い、みんなの話を黙って聞くのが多かった私に対して、優しいみんなは気を配ってくれて、話をふってくれるんです。
ティーコちゃん、
ずーっと私たちの話聞いているばかりだけど、
なにか愚痴とか、困っていることないの?
当時、私がリアルで困っていたこととは…
- 親が私の人生に干渉し、私の資源やエネルギーや時間を奪いつくし、
人生の邪魔をしてくること - そのため、自分の人生をうまく進むことができないこと‥
目の前にいる普通家庭育ちのみんなは、自分が生まれてから、自分の人を応援してくれる両親や親戚に恵まれ、自分の人生を前進するのがあたりまえの価値観で生きてきた人たちです。
私のこの、毒親にまつわる悲惨な境遇に由来した、リアルな悲惨な悩みを聞いたとしても、今一つぴんとこないに決まっています。
つい、言ってしまったところで、みんな本当に困った顔をしながら
でもさ‥
そんなこといっても、
この年まで親にはお世話になったのは事実だよね‥
やっぱり、親には優しくしてあげなよ
そんな”みんなからの心からのやさしいアドバイス”をもらって終了だったことは数知れないために、うっかり本当の悩みや愚痴なんてこぼせないんです
「毒親育ちの本当の困りごと」を言ったところで、普通家庭育ちのみんなの価値観でのアドバイスはやはり毒親家庭にはなかなかフィットせず、
お互いきまずい雰囲気になるという経験は、これまでいやというほどしています‥
私はそこで「特にないかな、私ぼーっとしてるからなにも気づかないのかも」と適当に濁して笑うだけでした
そしてそのうち、このかみ合わない世界にとどまるための、必死の努力に限界がきて、だんだんとこのグループのお誘いを断ることが増え、やがて私は一人でいることが増えました‥
愚痴をこぼす=デトックス効果・みんなと情報の共有ができる
愚痴って、人にとって、いい役割を果たすものだったんだな‥
後にこのことを思い返すと、「愚痴をこぼす」という行為は、愚痴をこぼす本人にとってもまわりにとっても、潤滑油のようないい役割があったのかな、ということに気づきました
自分のなかにふきだまったモヤモヤを、周りの人たちに言葉として吐き出し、共有するということ。
1人黙って心に重苦しく不満がたまってしまう前にモヤモヤを解消できる健全な方法ですし、その愚痴をまわりの人に話すことによって自分の中身を開示することとなり、お互いのことをよりよく知れるという効果もありますね。
愚痴というのは自分自身のデトックスと、コミュニケーションの潤滑油として、人にとって必要なものなのかもしれないな‥と、みんなから離れ、しばらく経って、私はやっと気づきました
でも、効用をしったところで、毒親育ちである私は↓のような環境で長年生きていたために‥
- 辛いことを辛いと言葉にして出すこと・認めることすら許されない
- 少しでも愚痴を吐くと「弱音を吐くな!」「うるさい!」と毒親に攻撃されてしまう
こんなふうに幼い頃から愚痴を封じられた毒親環境にいると、もはや自分の辛いことを外に出すどころか、辛いことを辛いと認める力すら奪われてしまっているのですよね‥
毒親に辛いことを辛いと認める力を奪われた私が、普通家庭育ちのみんなとの「愚痴の吐き合い」にうまくついていけなかったのは、ごく当然のことでした
愚痴の内容で「この人は健全な自己肯定感の持ち主だ」ということがうかがい知れる
普通家庭育ちの友人たちは、よく「〇〇(主に彼氏)は自分を大切にしてくれない!」という愚痴を口にしていました。
人が私を大切にしてくれない。
このことを堂々と愚痴として言える、ということは、自分は大切にされるに値する人間だ、と自然に思えるような自己肯定感がちゃんと育っている証拠なのだと思います
私は毒親によって、生まれて早々に自尊心は叩き潰されて消え失せ、自己肯定感などは地の底状態だったために、
人に大切にしてもらえないなんて当たり前
人に粗末に扱われるなんて当たり前
こんな鬱屈したマインドが普通の状態でした
「自分を大切にしてくれない人」を正面から非難できるということは、健全な自己肯定感が育っているということ。
心から羨ましいな‥と思うんですよね
愚痴は大切。でも、毒親育ちはその流れに乗ることが困難だった‥
愚痴をこぼすというのは、自分自身の精神衛生を保つ上でも、人との和やかなお付き合いにおいても、大切な役割を果たすものなんだ‥ということを、私は彼女たちの姿によって、しかも彼女たちから離れた後に、やっと気づきました。
当時は気づくことが出来なかった。
毒親からの物理的・精神的暴力にまみれ続け、自尊心をめちゃめちゃにたたきつぶされていた当時の私は、正直、彼女たちが真剣に愚痴を話す姿を見て、
こんな大したことのないことを真剣に嫌だと言って、真剣にみんなに話すって‥
ちょっと私には理解ができないな‥
こんなふうに思ってしまうことが多かったんです。
自分は家庭で、毒親から日々凄惨な扱いを受けて、やっとのことでここまで生き延びているけれど、そんなことだれにも話したことがないし、助けを求めたこともない(どうせ誰も助けてくれないことがわかっているため)。
愚痴の内容からもわかるように、普通家庭育ちの人たちとは、住んできた世界や価値観があまりに違うために、わかりあえないことがわかっている。
それでも私は、彼女たち普通家庭育ちに憧れ、みんなと一緒にいたいがために、必死にとけこむ努力を続けたのですが・・
こうして愚痴一つにも全く違う価値観やこれまでの人生が浮き彫りとなってしまうことに辛さを感じ、そして疲労はどんどんと蓄積し、
私は彼女たちと仲良くする努力を、途中で止めてしまったのですよね‥
まとめ
毒親家庭で命を脅かされる環境に生き続け、そして重苦しい悩みを幼い頃から一人黙って抱え続けている毒親育ちの私は、
目の前の普通育ちの友人たちが真剣に話す悩みをいまひとつ理解できずに、彼女たちとの付き合いを重ねるたびに、彼女たちと自分との大きな隔たりをより一層感じたものでした。
もし、より気持ちを割り切って、彼女たちと今でもお付き合いを続け、コミュニケーションを兼ねた軽い愚痴の言い合いが(表面的であっても)出来ていたならば、私の何かは違っていたのでしょうか‥
でも、当時は「愚痴」で彼女たちと自分との大きなへだたりー凄惨な毒親家庭育ちと、大事に育てられた普通親育ちとの圧倒的な違いーを過敏に感じ取ってしまい、そんな大きな違いを持つ者同士との関係を一生懸命維持し続けるということは、当時の私には、もう無理だったんですよね
普通家庭育ちのみんなは穏やかでいい人で、私は何とかしてなかよくしたかった。
でも‥私はだんだんと、このグループで普通の顔をして、普通にい続けることに疲れを感じるようになってしまい、だんだん疎遠となってしまいました
愚痴というものごと一つで、普通家庭育ちと毒親育ちの大きな違いのを思い知り、そして彼女たちと付き合いを続けることに、私は限界を感じてしまったのですよね‥
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