人の考え方や、大事にすることってそれぞれですよね
でも、自分にとっての「絶対正しい!」を他の人にも押し付けてくる人、
みなさんの周りにいませんか?
毒親育ちの私の周りは、そんな人ばっかりだったんです…
「自分にとっての正しさ」を周りに押し付けてくる人たちと、その心理を、毒親や毒な親族を例にとりながら記していきたいと思います
そして、いつも不安そうな彼らを見ると、不完全な人間が、「ずっと絶対に正しいこと」を見つけられるものなの?
こんな疑問がわいてくるんですよね
「これが絶対に正しい!」と決めつけるのではなく、移り変わる時代の中、大変なことだけど、自分にとっての「その時々の」正解を試行錯誤していく姿勢が、
「人として生きる」ってことなのではないかな、って思うんです
毒親たちにとっての絶対=「親孝行」「親には絶対服従」
毒親たちにとっての絶対的に正しくて、最優先にしなければならないこととは、
- 「親孝行をしなければならない」
- 「親の言うことは絶対従わなければならない」
こんな感じでした
毒親たちの周りの親族達も、毒だらけです。このような考え方は、一族で一致していました
恐らく長年連綿と続いてきたのでしょう
一部、この考えに賛同できない親族は、居心地が悪かったのでしょう。一族とは疎遠にしていました
毒たちはその人を、「親不孝者だ」と、いつも悪く言っていました
この一族にとって、親がどんなにおかしい人間でも親に対する否定的な言動を持つことは禁止なのです
- いつでもどこでも親ファースト
- 親のために、自分の時間やエネルギーを優先的につかわなければならない
彼らは、そんな確固たる考え方を持ち続けていました
具体的には、自分たちの金、物、時間を、毒親たちの親である、毒祖父母たちにひたすら捧げます
私たち子供に食べるものや使うお金がなくても、親にはせっせとそれらを贈り続けます
しょっちゅう、祖父母の自宅にご機嫌伺いをし、祖父母の言いなりに動き、かいがいしく世話を焼いていました
しかし、毒親の周りの人間はみんな毒、の法則にのっとり、祖父母もまた毒です
毒親たちが尽くしても尽くしても、毒祖父母からは、いつも感謝の一言もありません
それどころか、もっとあれをしろ、もっとこれをしろと、際限のない要求を毒親たちに突きつけていました
何をやっても感謝をしてもらえない毒親たちは、不満がたくさんたまっていたのでしょう
自宅に帰宅後は不機嫌になり、子供を無視したり、無駄に叱りつけたり、私達子供に八つ当たりをしていました
お前も同じように、親に尽くせ!
どんなに尽くしても、感謝一つ返してくれることのない毒親に対して、ひたすら尽くすことのむなしさを、毒親たちは、そこで感じることができなかったのでしょう
だって、親に尽くすことは絶対であり、そこに個人的感情の存在は許されないのですから…
毒祖父母がどんなにおかしくても、おかしさを感じることのできない心理状態だったわけです
「親に尽くすことは正義」という考え方は、彼らに根深く巣食っていたのでしょうね
毒親たちは、その不毛な連鎖を断ち切ることなく、私たち子供世代にも、ナチュラルに強要します
- 親が望む通りの優秀で自慢できる子供になれ!そうじゃないと、ここには置いてやらないぞ
- 親が欲しいと思ったものは察して、すぐに用意して贈れ
- 親がやりたいと思ったことは、すぐにサポートして実行できるようにしろ
- でも、俺たちの金も手間も極力かけさせるな、自分ですべてをやれ
例え、子供である私の人生がどんなに大変な時期でも関係ありません
彼ら毒親は、私にいつも「親ファースト」を強要し、
私のエネルギーや時間、場合によっては物や金を、親に優先的に使うことを要求してきました
絶対、って、本当にあるの?
私の周りの毒親を例にとりましたが、このように、自分の信念が絶対的で、それを周りの人にナチュラルに強要する人っていますよね
そういう人って、たいてい自信にみちあふれています
どうしてかというと、彼らは、自分が思う、「正しい人生」を送っているわけですから
「何の間違いがなくて正しい道」を、彼らはこれまでも、現在も、自信満々で歩いているのです
逆に、その「絶対正しい」に沿わないで生きる人たちを、「間違った生き方をしている、おかしい人」と決めつけるわけです
そして、「あなたの生き方は間違っている!この“絶対正しいこと”に沿って生きなければいけない!」と上から説教をしてきます
絶対正しいを持つその人にとっては、自分とは違う生き方をする人イコール間違った生き方をしている人です
間違った生き方をする人に「絶対正しいこと」を”教えてあげてるわけですから、
彼らにとっては、この説教は、人のためになるいいこと、をしているのでしょうね
でも、人間っていうのは、間違いをしょっちゅう犯すし、欠点だらけな存在ですよね
完璧な人間なんてどこにもいません
だから、間違いながら手探りで生きる姿の方が、より自然で普通に思えます
それに、時代と共に、価値観はどんどん変わります
そんな中で、
- 一つの考え方を「これが絶対正しい」と決めつけること
- それをずーっと、絶対正しいと信じ続けること
そのほうがむしろ危ないんじゃないかと思ってしまいます
私の生まれ育った家の、毒一族の「正しい」にとらわれた、辛そうな姿を見ていると、特にそう思います
「絶対」を押し付けたい人たちの心理
自分にとっての「絶対」を押し付けたい人って、一見自信に満ち溢れていますが、実は、心の奥では不安なんだと思います
恐らく、長年無理を重ねている、自分の生き方は正解なのだと証明したくて、心でもがき続けています
そうじゃないと、今までの苦しみはいったい何だったのか?ということに行きあたってしまいますからね…
- 自分はこれまで、この「絶対」に従い続けてきた。
- この「絶対」に満たないものは、すべて切り捨ててきた。
- 切り捨ててきたことへの後悔も、見ないふりをしてきた。
この自分を正当化したい。
しかし、ふとまわりを見ると、自分の「絶対」にとらわれずに、自由に生きている人がいる。
彼らが楽しく生きている様子を見ているだけで、自分のこれまでの辛い人生が否定された気がする
自分とは違って、「絶対」にとらわれた生き方をせずに、自分の心のままに、自由に生きている人が憎い!
こんな心理が働いているのではないでしょうか?
私の周りの「親絶対主義」を大切にし続けている毒親たちをみると、そんな焦りが見え隠れしているんです
彼らはどこか不安で余裕がなく、いつも不満ばかりでした
絶対って、こわい
人間は不完全で、失敗も遠回りも勘違いもする生き物です
そんな人間が、揺るぎない「絶対」を手にして安心したいという気持ちは、痛いほどよくわかります
だけども、その不完全な存在である人間が見つける「絶対」って、本当に永久に絶対でいてくれるのでしょうか?
私にはそう思えません
周りにいる毒親のいびつでおかしな生き方を見ると特にそう思います
すがれる「絶対」がない状態というのは、確かに不安です
でも、不安なのは当たり前なことだと思います
生きるというのは、
不完全な人間が、ろくなマニュアルもお手本もなく、これまで生きたことのない状況を、
次々襲い掛かる未知のイベントを必死でこなしながら、ひたすら進み続けなければならないということなのですから。
不完全な存在が、未知の世界を歩き続けなければならない。
人間が置かれているその状況は、とても厳しいものです。
それでも、めまぐるしく移り変わる時代や価値観の中で、なんとかその都度、
自分にとっての「その時々の」正解や、方向性を試行錯誤していくというのが、
人として生きるってことなのではないかな、と思うんです
不安だけど。何も確たるものはないけど。
人として生まれた以上、それはみんな同じです
それでも、時に自分一人では抱えきれない不安や悩みが発生することはあります
そんなとき、誰かが作り出した「正しさ」に、一時的にすがり、助けてもらうことはあると思います
でも、やがて自分のパワーを回復し、再び歩き出せた時、
その場所にますます固執したり、すばらしさを人に押し付けまくる、という方向に行ってしまうと、押し付ける人、押し付けられる人、どちらも幸せそうにはみえません
「辛いところを助けてくれてありがとう」とお礼を言ったあと、そっとまた自分の道に戻るのが自然でスマートな進み方のように思います
今の自分にとって、大切なもの・こと・考え方をアップデートしながら進む
私の周りにいた毒親や親族たちを見続けて、私はこのように思います
私は、自分にとっての最適な道や考え方を、
その時々で、自分の力で、常に模索しながら生きたい。
たとえその選択が、後から考えて間違いだったとしても。
他人から笑われたり、おかしいとバカにされたとしても。
自分で時代の流れや価値観の変化をとらえ、自分の頭で考えて、生き方を決め続けていきたいです
誰かが考える、「正しい」を盲信するのではなく、自分の頭と足でつかみ続けてきたいです
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