毒母の意地悪によって、すごく楽しみにしていたマンガ雑誌・りぼんを買うことができなかった‥
私には、そんな子供の頃の辛い思い出がありました
未だに忘れられないそのくやしさ、悲しみ。
あんなの、しつけではなく毒親の子いじめでした
そのことを以前記事にかいたのがこちら↓↓↓です
このエピソードには、実はアナザーストーリーがあるんです
その出来事によって、私はこんなことを、痛い思いをして知ったんです…
- 「私は(みんなと違って)これを持ってる!」
→「だから私は、この部分だけはこの人に勝っている!」と安易に思いこんで優越感を得てしまうことの危険性。 - この思い込みによって、のちのち大きなダメージを負ってしまうことが多い
- 特に毒親育ちは、受けるダメージが大きくなりがち
私がりぼんのふろくを持つことで、「ふろくを持ってる私、(りぼんを買っていない)持ってない友達。」という違いができる。
「だから(せめてふろくを持つ・持たないの部分だけは)私は勝ってる!」をやりたかった私‥
しかし、この目論見はもろくも崩れました。
それどころか、ますます惨めな自分を確認させられることとなってしまったんです
自己肯定感と自尊感情を必死に一人でつくりあげなきゃならない毒親育ち
私が生まれ落ちたのは毒親家庭でした
毒親からは否定や罵倒ばかりでろくな肯定などもらえず、自尊感情がろくに育たなかった私は、幼い頃からいつも、自分が存在すること自体に不安がつきまとっていました
その不安に負けずに生きるためには‥
「私にはこれがある!だからここにいていいんだ」と胸を張っていえるもの、すがれるものが必要でした
その”もの”とは?
たとえば文具などの持ち物であったり、成績などの出した結果であったり。
もうすこし成長してからだと、入学する学校や就職先、やっている仕事、などだったりしたのかもしれません
私は今、これを持っているけど、〇ちゃんも△ちゃんも持っていない。
だから私はすごいんだ!
…一見浅はかで愚かな考え方です。
でも、子供の頃の私はこのように、持っている自分と持たない周りの子達との比較で優劣をきめ、それによって、必死に地の底にある自尊感情を引き上げようとしていたんです
しかし。こんな風に「今現在持っているもの」を安易に大きな心の支えにし、持っている自分と持たない人と比較して優劣を決めつけて、自分はもってる!すごい!と悦に入るという行為というのは、毒親育ちには危険が伴うんです。
だって、そんな”優れた状態”なんてあっけなく崩れ去るのですから。
毒親育ちは自尊の心もすがれるものもろくに持っていないがために、やっと見つけたすがれるものに強く依存しがちなんです
それが一瞬で崩れ去るショックや痛みというのは、普通の人たちよりもずっと大きいものとなります‥
人の状態や人の持ち物、肩書なんていうのはとても流動的です。
”持ってなかった人”だった目の前の友達が、ある日突然自分が持つものよりずっと優れたものを持ちはじめる・・ということがしょっちゅう起きるんですよね。
しかも、毒親育ちのように、必死にガツガツとりにいかなくても、スーッと自然に手に入れていたりします。「別にいらないんだけどなんか手に入ったんだよね(苦笑)」なんて風に。
それをやっと必死に手に入れて、必死にすがっている毒親育ちとは、受け止め方や力の入り方までまるで違っています
そうすると、持ち物や状態の比較によってこれまで保てていた「私の方が勝っている!」という優越感が一瞬でゴミになってしまうだけでなく、
必死に手に入れたものが一瞬でゴミになる私、自然に手に入れても別になんとも思っていない目の前のこの子、という二人の間の残酷な違いを目の当たりにすることになります
自分と豊かな子との違い、それをしみじみと体感した具体的なエピソードが、先に記事にした、「りぼんの手帳」を巡るクラスメイトのBちゃんと私に起こった出来事でした
りぼんのふろくとBちゃんと私
こちらの記事でも書いたように、私は小学校低学年の頃、りぼんという少女雑誌を買っていました。
年に1度、ふろくとしてかわいいスケジュール帳がついたんです。それが本当に楽しみでした。もう何ヶ月も前から発売を楽しみにしていたんです
当時の私の隣の席はBちゃんでした。
Bちゃんは裕福なおうちで優しいお父さんお母さんに可愛がられていて、いつも身だしなみも美しく、しかも性格がおっとりとしていて優しくて、人に好かれていつもお友達に囲まれていました。
私が持っていないものをすべてもっていたBちゃん。
親に粗末に扱われて人とうまく関われず、髪も服もろくにかまってもらえず小汚くい自分とはまったくちがうBちゃんがまぶしすぎて、私はBちゃんにはちょっと近寄れなかったんですよね。
でもBちゃんとは隣の席なので、いつもかわいい服を着て髪がきれいで、たくさんのお友達と楽しそうに過ごし、かわいい文具やグッズをたくさん持っているキラキラしたBちゃんのことが嫌でも目に入ります。うらやましくてしょうがないに決まってます。
そこで私は「私の持つ(予定の)ものだけど、Bちゃんは持ってないもの」によって、この部分では自分が勝ってる!と思い込み、自分のざわめく心をしずめようとしました。
それがりぼんのふろくの手帳だったんです。
Bちゃんはりぼんを購読していなかったので、
大丈夫。
私はかわいい手帳がもうすぐ手に入るんだから。
Bちゃんはりぼんを購読してないから、
まもなく手帳を持っている私・手帳を持っていないBちゃんになる。
だから私はBちゃんみたいにいろいろ恵まれてなくても、
友達がいなくても、手帳を持つ予定だから大丈夫なんだ
こう必死に自分に言い聞かせてたんですよね‥
きっと、当時の私は、目の前でBちゃんが自然に持っているいろんな豊かなものが目に入ることで、自分がいかに何も持たずみじめなのかが、自動的にあぶりだされて一人勝手に傷ついていたんです
そんな何も持たない自分がBちゃんの隣の席で正気を保って生きるには、もうすぐ手に入る、ふろくの手帳が心の支えみたいになっていたんだと思います
そうしたら‥手帳がやっと手に入る、りぼん発売日の直前に、わが毒家庭で事件が起きました。
毒母の意地悪により、私はその手帳付きのりぼんだけを、絶対に買っちゃだめだといわれれたんです‥
りぼん発売日の翌日。
みんな手帳を学校に持ってきて、楽しそうに見せ合いっこしをています
ふと隣のBちゃんを見ると‥なんとあの手帳を手にしているではありませんか!
何で?
だってBちゃん、りぼん買ってないって言ってたのに
どうしてふろくの手帳持っているの?
私はびっくりしてしまい、いつもはあんまり話をしないBちゃんについ「どうしてこの手帳持ってるの?Bちゃんはいつもりぼん買ってなかったよね?」と尋ねてしまいました
Bちゃんはニコッと笑ってこう答えたんです。
これ?
お友達の〇〇ちゃんが、私にプレゼントしてくれたの!
わたし、りぼんってあまり知らなかったけど、
これ、かわいいダイアリーだね
Bちゃんはいつものニコニコ笑顔で、のんびりとした口調で、答えてくれました‥
何でも持ってるBちゃんは、必死に頑張らなくたって、何か月も待ちに待たなくたって、可愛い手帳は自動的に手に入ってる。
一方の私は、手帳を心の支えにして何か月も楽しみに待ったのに、毒親に泣いて土下座までしたのに、毒親の意地悪で決して手に入れられない。
持つ予定だった手帳が持てない私と、予定になかったけど自然に手に入るBちゃん。
いつまでもどこまでもBちゃんは豊かだし、私は怖くて変な親の家庭で生きる惨めな私なんだということを思い知りました
(当時は毒親という概念を知らず、「うちの親は怖くてちょっと変わった親」、と思っていました)‥
自分よりなんで持ってて、とってもて幸せそうなBちゃんに、私は何とか、どこか一つでもいいから自分の方が優れてると思いたい。
こんな思いから、安易に勝利できそうなものを見つけ、それを少しの心の支えにしようとした。
しかし…私は勝利を得るどころか、”大負け”してしまったんですね
”負けてしまう”だけでなく、知らなくてもよかった豊かと惨めの格差をますます思い知らされることになった
‥そんな痛くて辛い出来事でした
豊かで自然に生きられてる人って、どこまでも豊かだし自然。毒親育ちが安易に比べちゃ危険!
毒親育ちは親が味方ではありません。
毒親には人生を妨害されながら1人必死で生きています。
その大きな消耗の割には、「報われた」と感じることが本当に少ない。
でも、少しでも報われたと思いたい。自分のがんばりを実感したい。
そんな気持ちがふきだすあまりに、目の前にいる人に対して、「私はこの人に持ってないこれがあるんだから、この人より恵まれてる部分がある」と言う安易な比較に走り、安易な勝利を感じたいという強い思いに突き動かされてしまうことがあります
しかし、「(ここでは)自分の方が勝った!」と安易な勝利に酔ってしまうと、あとからたいへん痛い思いをする確率が高いんです
痛い思いとは、遭遇しなくてもよかった辛さを感じたり、余計なエネルギー消耗をすることです。
毒親育ちはただでさえエネルギーを毒親に奪われ続けて疲れているというのに、このようなことで余計な消耗をしてしまうと、ますますダメージを受けて生きる力が低下してしまいます。
目の前の人が何を持っているか?と言うのは、極めて一時的で流動的なものです。
その上、毒親育ちが”いま現在の勝利や満足のために”必死ですがっているたった1つのものというのは、豊かな育ちをした人にとっては目に入らない気にしないレベルの取るに足らないものであり、その人がちょっとその気を出せば、簡単に手に入れられるものである可能性が高いんですよね。
孤独で人と関われない毒親育ちが必死で手に入れようとするものを、豊かな人は、豊かな実家や交友関係や身に付けたスキルなどから、まるで水道から水をだすがごとく、たやすく手に入れられる確率が高い。
しかも、それに執着しなくてもすでに、心豊かに生きることができている‥
その上、毒親育ちと違って、それを簡単に手に入れられる人は、それに対して強い執着や思いというものが全くありません。
「ああ、これね、なんか知らないけどこないだ手に入ったの」と軽い反応をするくらいな場合が多い。
毒親育ちと違ってそれに必死にすがらなくても、心の支えにしなくても、特に支障なく普通に生きられているんですもの、執着なんて必要ないのですよね‥
今持っていなくても、その後「らくらく」手に入れられて、それが別にどうってことない出来事でしかなくて‥
そんな、普通環境に生きる人を目の当たりにすると、毒親育ちはその立場の違い、恵まれ方の違いに、ますます傷つくことになります
こう冷静にみていくと、毒親育ちと普通育ち、もう比較する前から生きるフィールドが違いすぎるのに、無謀にも同じ目線で比較し、「勝った」と思いたい!なんて‥どだい無茶すぎる話だったんですよね
”安易な比較”と”安易な勝利の思い込み”は結局、毒親育ちへ余計な疲労や消耗を生む
毒親育ちとは違って、必死にならなくても、無理せずとも、スッと自然に必要なものが手に入り、余計な力みがないままに生きることができる人って、この世にたくさんいるんですよね。
毒親がのさばるおかしな家庭で「一人でがんばらないと後がない」といつも力み、いつもがけっぷちの境遇に生きている自分とはあまりに違いすぎました。
そんな、毒親育ちとは全く違う、豊かで自然でいられる価値観や流れの中で生きている人と自分の比較なんて無意味だし、ましてや、その人たちに勝ちたい!なんて思ってしまうと、そんなものはやがて簡単に覆り、かえって自分の惨めさが浮き彫りになるだけでした
ただでさえ存在不安が強く、自尊心を持つのが難しい毒親育ちが、たった一つの持ち物の有無でさえ一瞬にして目の前の人に劣る(誇れなくなってしまう)という事実を突きつけられると、そのショックはとても大きなものとなってしまいます
もろくてはかない一つのものに大きな期待をかけて「これがあるから自分はこの人より優れているんだ!」という考えにとびつき、心の支えにしてしまう行為というのは、結局毒親育ちである自分は大きく傷つく可能性が高くて危険な行為だということ。
安易な勝利を求めてそれに強くすがってしまうと、それがかんたんに崩れ去ったとき、ますます自分の不幸があぶりだされ、ますますみじめになってしまう‥
だから、安心したいがための安易な比較や安易な勝利に飛びついてしまうことは危険な行為なんだ‥ということを、私は痛い思いをして学んだんです
コメント
これ・・なんか分かります。
弟から聞いたのですが、大学で今思えば毒親育ちだったんだろうなっていう女の子がいて、りぼんの手帳の子みたいに愛されて育って人から好かれる子に執着していたそうです。
マウントしたり、ヒステリー起こしたり。
ある日、たまたま任意参加の授業があったのですが、座る椅子がないのに毒親育ちの子がわざと「この授業、必須だよ」と嘘ついて呼び出して、その子を困らせたことがありました。(みんな見ていた)
その翌週の授業は自習で人はあまりいませんでした。その時、毒親育ちの子が意地悪した子がどれだけ傷ついているか見ようと近くに来たそうです。しかし、その子は全く意に介さず他の学科の子と楽しく話していて、毒親育ちの子は絶望で死にそうな顔していたとききました。
弟さんの大学の女の子たちの様子、目に浮かびます‥
自分と違ってなにもかも恵まれた子を目の当たりにするとどうしても目が行ってしまい、勝手に辛い思いを抱いてしまう。
(逆恨みなのですけれどね‥)
でもどんなに嫌な思いを抱かせようとしても、愛された子というのは結局、ひらっとするっとかわしてしまえるのですよね