私は、自分の親が毒親であることに気づけなかった人を、長い間、近くで見てきました
その、気づけなかった気の毒な人間というのは…私の両親。
毒父と毒母です。
わが毒親たちはなぜ、いつまでたっても親の毒に気づけなかったのでしょうか?
そして、気づけぬままに年老いた彼らは、その後どうなったのでしょうか?
この記事では、我が親たちが、祖父母の毒に気づけなかったその理由と、彼らのその後の人生についてを記していきたいと思います
なぜ毒両親は、自分の親の毒に気づけなかったのか?
自己中で冷たい毒祖父母の言われるがままに生き続け、そのまま年を取ったうちの毒親。
前回の記事では、毒祖父母にいつまで振り回され続ける、彼らの奇行の数々をご紹介してきました。
彼らは、自分の親が毒親だということに気づかないまま、毒祖父母に従い続けて老いました。
父などは、ついに気づかぬままにこの世を去りました。
わが毒両親はなぜ、祖父母への盲信は止められなかったのでしょうか?
そこには4つの理由が考えられます。
- 「親がおかしい」という、自分の心の違和感や気づきを大切にしなかった
- 「おかしい人からは離れて、自分の身を守らなければならない」と思えなかった
- 自分の苦しみの根源を探り出すこと、それを断つことができなかった
- 子供という自由にできる道具・サンドバッグが手に入った
特に4なんてもう、人としてありえないですよね…
子供を平気で道具やサンドバッグとして扱う、毒親の毒親たりうる所業。
大変信じがたいことなのですが、私自身が実際にその被害に遭ったからこそ、理由のひとつとして挙げられるんです
毒親と気づけない人たちは、自分の解消できないむしゃくしゃを、弱い立場の子供に八つ当たりして解消しようとします。
まさに鬼畜の所業です。
…書き進めると過去のいやな思い出が頭に浮かび、怒りが爆発しそうですが…
ここでいったん落ちつき、一つずつくわしく見ていきましょう
「親がおかしい」という、自分の心の違和感や気づきを大切にしなかった
私の両親は、自分の親が毒親であり、おかしい人間だということに気づきませんでした。
気づく機会がなかったのか?
それとも、あえて気づかないふりをしたかったのか?
彼らに直接問いただしたことはないので、私の推測になりますが…
もし後者ならば、
- 自分の親がおかしいことを認めることができなかった
- 「自分や家族を守るために親を断ち切る」という決断が出来なかった
のだと考えられます。
その理由として‥
彼らが毒祖父母宅に一生懸命通っていた昭和~平成前半という時代は、現在よりも世間体第一の空気、同調圧力がとても強かったことが多分に影響していると思われます
「親がおかしいなんて、絶対に言ってはならない」
そんな当時の世間一般の考えを覆すことや歯向かう事は、大変難しかったのでしょう。
その上、彼らが若い頃は今のようにSNSがなく、たくさんの人と意見を交換できる機会がほぼなかったために、
自分の親がおかしいと思う人たちは実はこの世にたくさんいる、という事実を知ることができなかったのも大きな理由といえます。
彼らは親に対する違和感を心の中で抹殺し、世間で良しとされている親孝行(という名の毒親への盲従・崇拝)を続けるしかなかったんです
「おかしい人からは離れて、自分の身を守らなければならない」と思えなかった
毒祖父母から、いつまでも離れることができなかった毒親たち。
親へ、何をどんなに差し出しても、いつまでたっても満たされない。
本心はとても辛くて悲しい。
実は、心の奥ではいつまでも満たされず苦しいままのこの状況に対して、彼らの本心は、
「辛いよ!苦しいよ!」と叫んでいたのです
心が悲痛な叫びを発していた、その根拠は何か?といいますと、
これまた我が毒父の観察結果なのですが‥
毒父は、時間を見つけては一生懸命通っていた祖父母の家から自宅に帰ると、きまっていつも機嫌がものっすごく悪くなったんです
彼の機嫌が悪くなったその理由とは?
きっと、その時の彼の心の中はこうだったのだと思います‥↓↓↓
今回も一生懸命親孝行したのに、またお父さんお母さんはボクをほめてくれなかった!
ボクのことを認めてくれなかった!
ボクさびしい!悲しい!辛い!えーんえーん!!
そうだ!妻と子に八つ当たりしてストレス発散しよう!
こいつらボクよりずっと弱いし逃げ場のない奴らだからな!
じゃあ手始めに家族を無視して気分良くなろーっと♪
帰宅してからしばらくの間は、不機嫌な毒父がいる家の中はピリついて、本当に居心地が悪かったです
私はこの毎度恒例の疲労イベントにおびえるとともに、心底うんざりしていました。
祖父母宅からの帰り道、
これからお父さんが不機嫌になって暴れるのか
ただでさえ祖父母に気を遣って疲れてるのにな、
嫌だなぁ…
子供の私の意志は無視。
いつもいつも強制的に祖父母の家に連れていかれて、
そこにいるのは、いつもどこか冷たくて、こちらに無関心な祖父母。
その相手を何日もさせられ、こっちも疲れてるっていうのに‥
気の休まる間もなく、お次は父親の不機嫌に我慢しなきゃならない‥
疲れはどんどん積み重なっていったものです
このように、自分の実家に帰ると機嫌が極悪になり、家族に当たり散らさなければ発散できないほどに、毒父の心身には「親孝行すること」に対して大きな負担がかかっていたんです。
それでも彼らは祖父母の愛を得たいがために、無理をして必死に実家に帰り、親孝行作業を強制的に続けていました。
もし…
いくら親であっても、自分にこのような極度の疲労や、家族への八つ当たりという二次被害が発生するほどのストレスやダメージをを与える存在ならば、
思い切って自分の身を守ろう。自分だけでなく、自分が作った家族を守るために、おおきなストレス発生源である実親は断ち切ろう、疎遠にしよう、という決断や行動を取ることが出来たのならば、このような地獄は起こらなかったんです。
しかし、彼らにはそれができなかった。
自分自身も苦しみ、そのとばっちりで子供が苦しまなければならないという連鎖的な不幸が、長い間、家庭内で展開されていました
自分の苦しみの根源を探り出すことや、それを断つことができなかった
親のいいなり・親ファーストに行動してもいつまでも親に認めてもらえない毒親たち。
解消できないフラストレーションを抱えていたためか、いつも不満でいっぱいの顔でした
そしていつも何かに焦っていて、何をしても幸福感を感じられない様子でした。
彼らが満たされないのは当然なんですよね。
なぜかというと、どんなに毒親に尽くしても、毒親は満足というものを知らないからです。
彼らは長年、親孝行の美名のもとに、親の言いなりに必死に動いていた。
しかし、毒祖父母の要求は止むことがなく際限がなかった。はたから見ていて、それはまるで穴の開いたバケツに必死に水をためるような作業をしているようでした。
毒親たちの必死の努力もむなしく、毒祖父母はいつまでも満たされることなく、次々と我が毒親たちに要求をつきつけていたのです
毒親の心に持つ、穴の開いたバケツというのは、子供がどんなにエネルギーややさしさや金を貢いだところで、いつまでも満たされません。
だって穴があいているのですもの。
穴を放置していれば、いくら水やものをいれたところで満たされませんよね
子供からいくら奪っても満たされないその空洞は、まるでおぞましいブラックホールのようです‥
我が毒親も、かつて自分たちが自分たちの親にされたように、際限のない要求を私にぶつけてきましたが‥
私はもういろいろと限界がきて、毒親とは疎遠を決断・実行しました
私の場合は、毒親という不満と要求のかたまりである存在からの疎遠を決行したため、毒親にまつわる苦しみというのは、本当に減りました。
やっと自分の人生を歩きだせているという実感があります。40代にしてやっと、です
毒親後遺症こそ未だ私の体内に巣食って私をなにかと苦しめますが、リアルで毒親との接触があり、要求をじかに投げつけられていた頃とは、苦しみや窒息感はまるで雲泥の差です
自分を悩ませ苦しませ、疲労させる根源は毒親だったと気づき、その毒親からは距離を取る。
親不孝とののしられようとも、これ以上自分のエネルギーを毒親に使わない、という重い決断をしなければ、この無駄なエネルギーの流出、毒一族の負のサイクルはいつまでたっても止まらない。
実際に行動を起こしたうえで、このことを実感しているところです
もし毒親たちがどこかで、この異常な疲労は親のせいだと気づけていれば。
そして自分の大切なエネルギーを無駄に毒親に垂れ流し続けるのを止め、自分が満たされることや、子供のことに使うことができていたならば…
親不孝とののしられ、親不孝と自分自身を責める罪悪感に一時耐えさえすれば、長く抱えてきた満たされない苦しさからは大きく解放されたと思われます
もちろん、家族への八つ当たりという二次被害も防ぐことができたはずです
しかし、残念ながら、彼らはその境地に到達することはありませんでした
彼らは、時代柄もありますが、なにより自他ともに肯定しやすく称賛されやすい「親孝行」という言葉や行為に、違和感や疑問を抱くことなく安易に長年乗っかりすぎてしまったんですよね
恐らく毒祖父母も、自分の中のぽっかり空いた穴をふさぎたいがために、子供からしぼりとることで必死で満たそうとしていたのだと思われます。
しかし、いつまでも穴はふさがらず、子供の間に競争を煽ってまで、子供から搾り取り続けた。
自分の不足を子供から搾り取って満たそうとするけれども、満たされない状態が孫や子へと続いていく‥これが、いわゆる毒の世代間連鎖と言われるものなのだと思います
どこかの代で、いつまでもふさがらない穴の存在を認め、そしてそれを適正にふさぐ方法を実行する(これはものすごい労力が必要だと思われます)
もしくは穴の開いた一族からは離れ、言いなりにならない別の人生を展開するという決断をしないと、このような親子間の搾取の負の連鎖というのは、何代にもわたってナチュラルに続いてしまうんです
子供という自由にできる道具・サンドバッグが手に入った
フラストレーションまみれの毒親たちにとって、何よりこれは大きな出来事だったと思われます。
辛い現実に向き合うその前に、自分のいいなりにできる子供という道具が手に入った。
私が長年悩み苦しんだ根源、このブログを開設した理由。
こんな人間たちに限って、自分の子供という存在をたやすく手に入れてしまうという現実。
これ(子供)を使って親に気に入られるように、いい子に仕立て上げよう。
祖父母のいいなりのままに、いい子を演じさせたり雑用をさせよう。
ストレスがたまったら、こいつに暴言や暴力をぶつけて解消すればいい。
…毒親にとっては、子供という「見栄えの良い人形・小間使い・サンドバッグとして使える格好の道具」が手に入ったわけです。
どうせ子供はどんなひどい目にあわせたって、絶対自分の元からは逃げない。
子供の親への愛は無限です。なにをしてもお父さん、お母さんと泣きながら慕ってくれる存在ですからね。
彼らにとって子供とは、決して逃げ出すことがなく自分を慕ってくれる、便利に使える道具だったのでしょうね。
どんなひどいことをしても、自分のそばしかいる場所はなく、決して自分の元から逃げないので安心していじめたり、道具として好きなように使うことができる、子供という存在。
しかも自分たち自身が「親から粗末に扱われ続けている子供」なのですから、自分の子供を粗末に扱うことに罪悪感など一切わかないんですよね
毒親を毒親と気づけなかった人間の、その後
現在、祖父母の大半は亡くなり、毒父は早死にしました
ひとり残されて年老いた毒母は
昔、あんなに実家に帰らなくてもよかったのかもね
もっとこの家で、家族楽しく過ごせばよかった
そんな後悔をぽつぽつと口にしだしました。
どうやら、よその家と自分たちの違いにやっと気づいたようです。
よその常識的な家庭は、冷たい祖父母の家に強制的に子供を連れだし、子供を冷酷な毒祖父母にいけにえに差し出すような鬼畜行為などしません。
たとえば子供が「部活があるからおばあちゃんちには行かない」「友達とあそびたいから行かない」そんな意思表示をしたとき、子供の意向をちゃんと尊重します。
このように、意思を尊重されて大切に育ててきた家庭の子供は、成長すると、自発的に年老いた親を訪ね、一緒に旅行や買い物をたのしみ、プレゼントを用意します。
幸せな親子関係がずっと続きます
毒親のように「旅行つれてけ!ブランドバッグを買え!」と大声でわめかなくても子供から自然にそうしてあげたいな、っていう暖かい親子関係。
その関係は一朝一夕ではできませんし、もちろん親側からの一方的な恫喝で成り立つようなものではありません。
おそらく毒母はそんな暖かい関係を築いている家庭が、まわりにたくさん存在することにやっと気づいて、うらやましくなったのでしょうね
そんな家族間の暖かい関係性ができあがるには、親子間での、暖かいやりとりや尊重の蓄積が必要だった。
かつて、祖父母や自分の欲のために、子供の意思を黙殺し、親の言うがままに従わせていた行為は、子供を辛く苦しい目に遭わせる、あたたかさとは真逆の行為であった。
だから自分の子供は、自分の元には寄ってこないのかもしれない。
ここにやっとうっすら気づいたようです
でも、今更遅い。
あなたの子供はもう、あなたのような毒親に使うエネルギーはすでに枯渇しています。
枯渇どころか、心身をガリガリと削られてきたので傷だらけです。
もうあなたの子供は、親と仲良く一緒に同じ時間を過ごすどころか、親の顔すら見たくない状態です。
長年奪われてきたエネルギーや、削られた傷に対する損害賠償を請求したいくらいです。
でも祖父母のおかしなやりくちに晩年気づけたのはよかったですね。
年老いてやっと、毒祖父母の洗脳がすこし溶けたといったところでしょうか。
まあ気づいたところで、もう手遅れもいいところですが…
まとめ
自分の毒親を毒親と気づき、認めることができなかった。
そしていつまでも親を追いかけ回しつづけ、離れるという決断が出来なかった。
そして何より自分の子供を道具として、いけにえとして使い続けた、わが毒親たち。
彼らはなぜ、親の毒に気づけなかったのか?その理由と、そんな経路をたどってきた毒親の末路を記してきました。
どうですか?悲惨の一言ですよね。誰も幸せになっていません。
あ、でももしかして…
親の愛をちらつかせ、子供たちを競わせながら搾取を続けた毒祖父母だけは、楽しい搾取を存分にして、気分のいいままこの世を去っていったのでしょうか?
毒祖父母と会話すらろくにしてもらったこともない孫としては、祖父母の気持ちなどわかるわけがありませんので、これはただの推察、といったところです
コメント
ティー子さんこんにちは。
このブログ、まるで私が書いたのかと思うほどです。
細かいところまでそっくりです。
違うところは父親の性格と、妹の数でしょうか。
でも、父親が結局「オレは」話しかしてこなかった点は同じです。
うちは父親は暴力的でもカッとなったりもせず、論理的に落ち着いて話すので昔は結構尊敬していましたが、父が亡くなり考えが変わりました。
子供の進路や就職の話をしても、「オレは〇〇だ。」という嚙み合わない「オレは」話しかせず、結局、オレは立派だと言いたいだけでした。しかも、「オレは人と違う孤高の人間だ。」「変わっているから偉い」と考えていたようで、「人と違う変わったこと」をこちらにもさせようとしていました。
続きです。
似ていることが多すぎてコメントするときりがないのですが、ティーコさんって子供のころ男の子達から「暴力を振るうのはやめて」と頼まれたそうですね。思わず笑ってしまいました。
うちも、私は勝手に男の子が生まれると思われていたようで、それが女。次も女。男の子が欲しくて年の離れた子を作ったもののまた女。そこから、親の方針転換か私が長男役になりました。
親が勝手に私を男役にしているだけでなく、自分自身も男の子として生きているつもりでした。
だって、母親を見ていると女なんて嫌ですもん。
自己中心的で他人に自分が欲しいものをもってこいと言ってヒステリーばかり起こし、父親からは無視されていて愛されていないのがありあり。それで専業主婦だからまるで家政婦。
そんなのは嫌だし、子供なりに女より男が上と感じ取って自分は男の子だと思いたかったのかもしれません。
そして、私が子供のころの周りの男の子なんて、戦争ごっこをしたり、プロレスをしたり、結構乱暴でしたが、私は体格が良いので、正直勝っていました、、、、、
「人に勝つ」ことを求める母親から、いじめられっ子は恥ずかしいがいじめっ子はうれしい、学級委員やリレーの選手に選ばれなきゃだめ、というプレッシャーを暗にかけられ、結構学校では元気に過ごして学級委員になったり優良生徒として表彰されたりしていました。
で、「掃除しろ!」と言って男の子に箒振り回してチャンバラになっていたんですけどね。でも、私も本当は、絵を書いたりいろいろ考えたりしているのが好きなタイプだったのです。
また、ティーコさんのおっしゃるとおり、小さい頃を知っている人と離れ成長するにしたがって、他人からは自分は女性にしか見られず、男女雇用機会均等法が始まってさほど年数も経っていない時期に総合職として就職してからもどうふるまってよいのか混乱しました。
しかも、周りを見回せば、頑張って上を目指すよりも、女だと若くて美しい方が得であることもわかってきて、ますます混乱です。
ところで、私は長い間母親がヒステリーなので父親から嫌われていると思い、女が嫌だったのですが、今になって思うことは、父親が拒絶的・回避的な人格で、硬派っぽいことを言っているけれども人と関わりたくなく、自分自身の承認欲だけは強かったのだ、母親も半分カサンドラ症候群だったのかな、ということです。
ぬく さま
ブログをお読みいただき、そしてコメントをおよせくださりありがとうございます。
ぬくさんがご両親から持って生まれた性別を否定されたり、性別をポジティブにとらえる機会がなかったこと、
幼い頃はご両親の希望通りの振る舞いをされてきたこと。
そして成長後、その生き方を続けると、どうしても苦しさが生じてしまうこと‥同じですね。お辛かったですよね。
私もどんなに辛くがいても、同じ悩みを抱える人はまわりにはなく、自分の殻に、内に、閉じこもることで己を守っていたように思います
親による、子の性別の否定とは、子の存在の否定だと思います。
親から存在を否定されたなかで、ここまで必死に生きてきたことって実はとてもすごいことだとも思うんです。
親からの仕打ちによる混乱、そして自分の生き方の模索は続きますが‥せっかくここまで生き延びたのですもの、
今後の人生は、自分にとってのベストで快適なありかたでいたいものですね
コメントありがとうございます。
まだまだ、一緒!と思うところは沢山ありますよ。
うちは次女が女役なので、次女が高1で私が高3の時、夜帰ってくる妹を徒歩で迎えに行けと言われました。
成人式の振袖も次女だけが買ってもらいましたね。
次女だけが地元の大学に行っていたので、近所への見栄もあると思います。
私は大学時代下宿していましたが、成人式の時に「帰ってこい」とも言われなかったので、こちらから電話したところ「着物買えっていうのか×☆§怒怒怒」とこちらはそんなこと言っていないのに一方的に怒っていて、それだけです。
周りの友達を見ても、成人式を親は喜んでいたのに。
次女だけが振袖を買ってもらったのは、次女が女役だからだけでなく、母親が「姉妹は平等に(金銭面)」とマイルールを勝手に作ってそれを実行していたからでもあります。
そうやって、与えるものは等価値なのに、要求は長女にだけ異常に高い。
それも一緒です。
うちは、母が子供のころに習いたかったことは習わされましたが、親は塾へ行けとかは全く言いませんでした(ですので子供のころは疲れていませんでした)。
しかし、子供達がわりと勉強ができたので、進学、就職そういった場面になると母が異常に口を出してきました。(ただし用済みになるとポイ)。
女役の次女も結婚で相当被害に遭いました。被害に遭っていないのは三女です。
口出しの仕方も、こうした方が子供にとって良いことだから、という言い方で押し付けてくるのではなく、「自分はこういうのが好みだから」という自己都合丸出しで押し付けていした。
しかも、その言い分の根拠、その辺の世間話で聞いてきたことを基準に。
それで、子供がやっていることが別に悪いことや変なことではなく、世間一般的には上の上でも文句しか言わず、もっと上(人聞きが良いという意味)もっと上とけなし罵倒でした。
就職した時も、母からは、公務員試験に受かっても文句言われ、東大や京大卒やスポーツで全国何位くらいのエリートの男ばかりのところに総合職で就職しても、他の総合職女子の親のように子供を心配して会社に掛け合ったりするどころか、「恥ずかしいから近所を歩くな。親戚に会うな。」と言われました。
母親は何もわからないので、単なるイメージで言っているだけか、そもそも、何をしたところで不満で文句しかないのか、子供が自分で何かを決めるのが許せず母親の支配力の確認のために自分の意見を反映させたいのか、まあ、そんなところです。
子供に愚痴や悪口を毎日何時間も聞かせるくせに、子供が話しかけても「煩い」の一言で、何も話を聞いてもらった記憶はありません。
幼児が嫌がることを言って嬉しいのか「変な恰好」「橋の下で拾ってきた」「〇〇ちゃんは目がぱっちりして可愛い」とかそんなことを幼児に言って嫌がらせて喜んでいました。
父親は暴力的ではなく、むしろ、頭も体格もよく一見硬派なのですが、今から思えば拒絶的自閉的な人で一生自分探しをしていたような人で、自分から他人に全く関わってこないのに、自分が立派だと承認してもらいたいという欲求でいっぱいで、こちらから話しかけると一発で大砲で撃沈されるようなことを言ってきました。
長らく父親の言っていることは正しく、批判されるのであればこっちが悪いのだと思っていましたが、私が、超一流企業に就職して、母親から帰ってくるなと言われる一方、父親からは「生意気」「偉そうに」と言われてプレゼントをポイ捨てされた時には、あまりの理不尽さに本当に壊れましたね。