
先日、水泳の池江璃花子選手が、大病を克服した直後の五輪選考会で見事優勝し、五輪出場権を獲得したというとても明るいニュースが流れました。池江選手の闘病、病気の克服からの見事な優勝には心を動かされた方もたくさんいらっしゃると思います。
競技会後、池江選手はインタビュー内で、「努力は報われる」というフレーズを口にしました
このことに関して、一部ネット上では、果たして、本当に努力は報われるのか?というちょっとした論争が起こりました
努力は果たして報われるのか。ニュースサイトに集まったコメントを読んで回ったり、様々な人の話を見聞きしたり、また自分の体感から導き出した結論としては…
- 報われるかどうかは、人によります
- その人の持つ才能や頑張れる力を始めとした持って生まれたものや、運や縁や環境などに恵まれた人の努力は報われる可能性が高まります
…あれ、これって結局、努力はそれほど報われないって言ってるようなもの?
この記事では、果たして努力は報われるのか?そうではないのか?そこを探っていきたいと思います
努力は報われる?
先日、池江璃花子選手が五輪選考会で優勝し、五輪出場権を得た時のインタビューでコメントされた内容について、ネット上ではちょっとした話題となりました
ニュースサイトの記事に沿って見ていきたいと思います

レース後には「苦しくてもしんどくても努力は報われるんだなと思いました」と涙ながらに語った。
池江璃花子「努力という定義も難しいな」 “必ず報われる” 発言で物議
陸上の藤光選手は、自身のツイッターで池江選手に大きな祝意を贈りました。藤光選手の言う通り、池江選手の快挙には、本当に勇気をもらいましたね。
その後、藤光選手が別にツイートした内容が話題になり、それをきっかけに、ネット上では「努力は報われるのか?」ということについての議論が沸き起こりました
そのツイートとは下記のものです
(なお、「このツイートは決して池江選手個人にあてたものではない」、ということも書き添えてあります)
池江選手の闘病からの復帰までの血のにじむようながんばり
池江選手は誰もがご存じの通り、水泳界で活躍を続けてきた、若き才能、日本水泳界の宝です。
彼女の才能と彼女自身のたゆみない努力により、これまで輝かしい成績の数々を修めてきました。東京五輪と彼女の活躍タイミングもばっちりと合い、誰もが池江選手に期待をもって応援していました
しかし彼女は数年前、大病に倒れてしまいます。
突然降りかかってきた恐ろしい病と、辛い治療が続く日々。ニュースを耳にした我々でさえショックを受けたのですから、当事者である彼女は本当に筆舌に尽くしがたい苦しみの中、闘病生活を続けてきたに違いありません。
それでも彼女は水泳に復帰することを決して諦めることなく治療に専念し、病を克服しました。そして今年に入って競技会に復帰し、優勝を重ねて見事オリンピック出場をその手で勝ち取ったのです
まさに、彼女の血のにじむような努力が報われたのです。そこには一点の曇りも疑問も何もありません
ネット上に巻き起こった論争
しかしその後。彼女がインタビューでコメントした「努力は報われる」という言葉が独り歩きしてしまい、そこに論争が起こってしまったんですね
「池江選手はすごい!でも、努力は報われる…?ん?それは…どうなんだろう…?」そんな風に、心にひっかかりを持つ人が少なくなかったということです
大病を克服し、オリンピック出場権を獲得した若きアスリートの努力と素晴らしい結果については素直に称賛したいですよね。
しかし、しかしなのです…「どんなに努力しても報われなかった人たち」はこの世にあまりに多く、そこをどうしてもスルー出来ずに、ネット上でついつい言及してしまった。
その気持ちも痛いぐらいによくわかります。私も完全にそっちのほうに属しているからです
努力をした者だけが、”成功するかしないかガチャ”を引ける
努力は報われるのか?そのことについて論じているニュースや、このトピックに関して話し合われている場所を歩き回って読み進めていくうちに、とある一つのコメントに目が留まりました。
「努力を積み重ねた人だけが、“成功できるかそうでないかを決めるガチャ”を引ける権利が与えられるんだよ」
自分ががんばってきたことが報われるには?努力は確実に必要だけども、だからといって必ず成功するとは限らない。
しかしながら、報われることを願いながら、努力をひたすら重ねることによって、やっと「“あなたは成功です”という当たりが入った、当選確率は決して高くないガチャ」を引く権利が与えられる、というのです
この考え方には思わず深くうなずいてしまいました
成功したものはみなすべからく努力しておる!
また、「成功者はもれなく努力をしている」というコメントもよく目にしましたね。どうやらこれは、有名な漫画に出てくるセリフのようです
熱血ボクシングマンガ・はじめの一歩。
主人公・一歩にボクシングを始めるきっかけを与えた鷹村守が、初めて世界タイトルマッチに挑む直前の控え室にて、ジムの会長・鴨川源二が鷹村に贈った一言、なのだそうです
努力を重ねても、確実にその努力は報われるとは言い難いけれども、努力が報われている人というのは、それまでにたくさんの努力を重ねた人である。ということです
努力という行為があることによって、報われを得ることを自分に引き寄せる、報われる可能性を高めるという認識でいる人が多いということがわかります
小説・あのこは貴族から読み解く「努力が報われない残酷な現実」

何をもって報われる=成功とするのは人それぞれですが、例えば、いい学校に入り、安定した職業に就くことを希望する人にとっては、高学歴と安定した職を得ることが「努力が報われる」ということになりますよね。
ここでは、「あのこは貴族」という小説を紹介・引用しながら、学歴や職業にフォーカスをあてた場合における「努力は報われる」についてを考えてみたいと思います
※なお、小説「あのこは貴族」のネタバレ要素が含まれていますのでご注意ください
都心部の上流階級 VS 地方出身の庶民
あのこは貴族という小説があります。一言で言うと「何代も都心に住む裕福な人たちと、地方出身の優秀な上昇志向の持ち主」が登場し、出会う物語です
このお話では、都心の恵まれた場所に生きる人たちが、豊かな人生を難なく送るために、どれほどのアドバンテージを生まれながらに持っているかということが書かれています。
もちろん、一流大の学歴、一流企業や立派な職につくことなど、彼らにとっては苦もなく得られてしまうイベントの一つにすぎません
現代の貴族
都心部の裕福な家に生まれ育った人たち。彼らは、親や祖父母も通った一流私立校に、彼らは当然のように通います。大学受験も、一般受験者が受けるような大きなプレッシャーなどには恐らく縁がないものだと思われます
そして彼らは、たとえ就活時期に就職氷河期にぶちあたってしまっても、何も関係ありません。
この物語に登場する多くの上流階級の人たちは、就職活動気になると、いわゆる家のコネが発動し、さらっと一流企業に就職が決まっています。必死で受験勉強をしてやっと大学に入ったと思ったら、また一から汗をかきながら就活をして不採用の嵐を食らい続けるような、私のような一般の民とは大違いですね
小説ですから多少の誇張した表現こそあると思われます。でも、都心部には、このような庶民が知らない上流の人たちの生活というのが連綿と続いているところもあるのでしょうね
地方出身の優秀な庶民
一方で、その対極にある存在のような、さびれた町である、地方出身の時岡美紀が登場します。
彼女は頭がよくて努力家です。大学受験中はひたすら机に向かい、たくさんのエネルギーや時間を勉強に注ぎ込みました。そのかいあって、念願の東京の名門私立大に入学しました。努力は報われた…かのように見えました。
彼女は大学入学後に同級生として出会った、上で述べたような豊かな世界に生きる人々の存在を初めて知り、その姿に圧倒されるんです。
美紀が血のにじむような努力をしてやっと立ったスタートラインに、彼らはまるで近所の公園に散歩でも来たかのような気楽さでそこにいる。
それだけではありません。美紀は私立大の学費が家庭の事情で払えずに、必死で受験勉強をし、がんばって入った大学を中退せざるを得なくなります。
報われたはずの努力が、報われなかった。それも、自分ではどうにもできない理由で。努力の結晶である有名大卒という肩書きを手放さざるを得なくなるんです。彼女は優秀であり、努力を怠ったことがないのであるにもかかわらず、です。
努力は報われるのならば、美紀は勉強への努力を一生懸命重ねてきた結果である、有名私立大卒という肩書きという名の報われが発生しているはずです。それが、自分がどうにもできない理由であっけなく失われてしまうのです。
一方で、生まれた時から豊かな人生を約束された階級の人たちは、努力どころか、息を吸うようにその豊かな恩恵を受けています。美紀が泣く泣く手放した有名私立大学卒という肩書を、いとも簡単に手に入れているのです。
その違い、その対比が厳しいくらいに浮き彫りになるように、この小説は描かれています
どんなに優秀であっても、どんなに努力を重ねても。どうしても報われないことはあり、到達できない場所があり、得られないものがある。美紀は、それを身を以て思い知ったんですね
すべては生まれで決まってしまうの?
実は私も、美紀のように、生きる階級が違う人たちと出会い、その人生のあまりの違いに打ちのめされた経験があります。そのことをまとめた記事がこちらです。
いわゆる「実家が太い」人たちと遭遇し、彼らのその、穏やかで満ち足りて光輝く生き方に圧倒された話です
実家が太いとは対極である、貧乏で親は毒親という極細家庭に生まれ育ち、ひたすら暗いけもの道をかきわけて生きてきた私は、彼らと自分との、あまりの違いに打ちのめされたものでした
努力が報われる土壌なのかそうではないのか、生まれた瞬間からもう決まってしまっているの?
どんなにクソな場所に生まれ落ちても、努力によって、人生を切り開いていける。
そう信じていた十代の私に、そんな容赦のない現実が目の前に広がっていたんです
果たして努力は報われるのか

ここまで、努力は報われるのか?そのことを、池江選手のニュースサイトのコメントや、小説などを引き合いに出して考察してきましたが、残念ながら、「努力は報われる?」という問いに対して、断じてYES!とは言えません
「努力を積み重ねた人だけが、成功できるかそうでないかを決める、ガチャを引ける権利が与えられる。実際に努力が報われるかどうかは引いたガチャの結果次第」
「そもそも努力が報われるかどうかは人による。運、縁、環境、タイミングなどの持っているものに左右される」
私がたどりついた結論は、なんだか救いようのないものとなってしまいましたが、こうなりました
努力をした人の方が、報われをたぐりよせられる可能性は高まる
ただし、何もしない人よりも、努力を重ねる人のほうが、より報われる=望みを自分にたぐりよせることのできる可能性は高まる。ということは言えると思います。
先に述べた、ガチャを引ける権利説ですね
自分が成功したい、結果を出したい分野に、たゆみない努力で食らいつき続けていると、研ぎ澄まされた神経がその分野の小さなニュースに敏感に反応し、そのチャンスに食らいつく速度は普通の人よりも絶対に早くなります。
チャンスの神様の前髪をつかめる確率は高まるわけです
ハンデがありながらも、それでも自分の努力がその分野で報われたいのならば。やはり努力を続けることが、努力が報われることへの近道ではあるのかな。あってほしいな。そんなふうに思っています
このブログを読んでくださったあなたは、努力は、報われると思いますか?
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