なぜ、人は毒親になってしまうのでしょうか?
毒親の生い立ちをたどることで、毒親は一体どういう環境で誕生してしまうのか?それを探っていきたいと思います
この記事では、私の毒母についてをまとめ、考察をしました
ちなみに、毒父についての考察記事はこちらです↓
毒親に共通している部分とは?
上の毒父考察でも挙げたのですが、毒親となってしまった彼らが持つエピソードには、共通している部分がいくつもあるんです。それを一覧にまとめたのがこちらです
- 生まれた家の人間(父母、祖父母)がおかしい
- 父母、祖父母から生涯にわたって粗末に扱われ続ける
- 親のためにどんなに頑張っても、親から十分な承認や肯定をもらえなかった
- 親の異常性に気づく機会や、自分の本当の気持ちを大切にすることができなかった
毒親となる彼らは、冷たくおかしな人間だらけの家庭に生まれ育ちます。
具体的には、家に根強く残る古い家のルールや世間体などに長年強烈に縛られていて、自分の本当の気持ちや希望を長年押し殺し、どんな理不尽でも、家のルールや年長者に黙って従って生きてきた人間の集団です
このような家は往々にして、子供を中心とした、人に対して尊重したり思いやるような気持ちがなく、自己中で冷酷な人間が多いのです。
推測なのですが、人間は、このようにさまざまな理不尽なルールにがんじがらめに縛られ、不満や怒りでいっぱいな状況に長くいてしまうと、周りの人間を粗末に扱うことにためらいがなくなるのだと思われます
その被害は、特に一番立場の弱い子供に向かいます。
毒親にとって、子供とは道具です。家のため世間体のため、自分のため。子供をコントロールし、利用し、いじめてストレス解消し、そして抑圧します。子供は毒親によって粗末に扱われ続けて育ちます。もちろん十分な愛情をもらうことなどできません
子供が、そんな「親からの愛情欠乏状態」でいると、人生の第一目標が、親の愛を得ることになりがちなのです。悲しいですね
そのためには、周りの人、とくに家族などを便利道具として平気で利用するような人間になります。毒家庭とは、このような毒の連鎖、負の連鎖が起きがちなのです
そして、親や家の異常性に気づいたり、違う人生を生き直すのは大変な困難を伴うため、一生ここに気づくことなく、欲しくてももらえない親への愛情を必死に求め、周りの人間に害を与え続ける人生になりがちなのです
それではここで、一人の立派な毒親として生きている、私の毒母についてを細かく見ていこうと思います
極度に依存的な性格である母
私の母は、人に異常にべったりと依存する性質を持つ人です。
中でも彼女の実母、つまり私の祖母にあたる人を、いくつになっても必死で追いかけていました。祖母が近くにいないときは、いつもママ友や彼女の友達にべったりとくっついていました。
家にいるときは、子供を放置していつも誰かと長電話をしているか、人を家に招くか誰かの家に上がり込み、いつまでもしゃべくり倒していたものです
私に対するおかしな距離感
娘である私に対しては、子供の頃はめんどくさそうに粗末に扱ったり、道具として便利に利用していたくせに、私が大学生・社会人になったころに、突如として気持ち悪いくらいに私にべったりしてくるようになりました。
普通の親だったら。自立する年頃になった子供からは、自然と離れるタイミングですよね?毒母はまったくの逆でした。
恐らく、成長した私を、友人やご近所さんのように依存できるターゲットとして認定したのでしょう。依存できそうな人間は、他人であれ娘であれ、べったり依存して、自分の寂しさや欠乏をみたす道具のように使う。そんな性質を持つ人なんです
なぜ依存的な性格になったのか?
母はなぜ、こんな異常に依存的な人間になったのでしょうか?彼女の生い立ちを見ていくと、以下の3要素が挙がります
- 生まれ育った家庭環境
- モラハラサイコパス夫との不幸な夫婦関係
- 子供を「自分が自由に扱える道具だ」と勘違いしたこと
一つずつくわしく見ていきましょう
生まれ育った家庭環境
母は兄弟の一番上に生まれました。母の親、つまり私の母方の祖父母は、男の子しか欲しくなかったそうです。しかし生まれたのは、いらない性別である女。母でした。母は、望まれない性別で生を受けたのです
その後間もなく母の下に弟が生まれると、両親の愛情の対象はすべて弟、私にとっての叔父に向かいました
親に可愛がられず、いつも粗末に扱われる母は考えました。両親を振り向かせるには、勉強や部活で優秀な成績を収めたら、きっとほめられ、認めてもらえるだろう。彼女はスポーツや勉強、生徒会活動など何事にも全力で取り組んだのだそうです。彼女の人生をかけた、親の愛を得るための涙ぐましい努力がここから始まりました
しかし、彼女の父母は、その母の努力を認めることなど全くありません。それだけではなく、大学進学を希望する母の希望を「お前を大学に行かせる金なんかない」と即否定し、高校卒業後に母をとっとと実家から出して、遠方の都会で就職させました
弟(私にとっての叔父)との違いすぎる違い
一方、両親からの愛情を一身に受けていた叔父はというと、勉強が大嫌いで毎日遊んで暮らしていたそうですが、彼は何をしても愛され肯定されていました。彼自身はぼーっと遊んで暮らしていても、彼の親が、持っている金とコネを総動員していろんなことを自動的に用意してもらえます
例えば大学進学と就職。母は大学は入れてもらえず高卒で遠方に就職させられましたが、叔父は、金を積めばバカでも入れる大学への進学と、実家から通える地元優良企業への就職を用意してもらっていました
叔父は姪である私から見ても、愛情深くて落ち着きがある人です。人が好きで、誰とも穏やかに仲良く接することが出来ます。
生まれた時から存在を祝われ、まわりにに愛情をたっぷりかけられながら育つと、こんなにも情緒が安定して、人に優しくできる人間が出来上がるのです
祖父母の愛情を得ようと、何歳になっても目を血走らせて、祖父母を必死で追いかけ続けている我が母との対照的なありかたに、複雑な思いが様々に去来したものです。
叔父はなにも悪くありません。ただ、親をはじめとした周りの大人による、愛情のかけられ方のあからさまな違いがあっただけです。
それによって、母は愛情や承認の欠乏を抱えた心の飢餓人間になってしまった一方で、叔父はすべてを満たされながらすくすくと育ち、穏やかな幸せな人間になったという事実があるだけです
人生とは望まれ方や生まれる場所やタイミングによって、同じ親元に生まれた兄弟でさえ、こんなにも扱われ方、性質、幸不幸がパキッと別れてしまう、とても不条理な世界だということが、この二人の在り方によって嫌でもわかります
男の子しか産みたくない
実家から厄介払いのような状態で都会に出された母は、就職後やがて、モラハラサイコパス毒父と出会ってしまい結婚してしまい子ども(私)までできてしまうのですが、母もまた、リベンジ的にこどもは男の子を強く希望していました。
ここでも親にかけられた呪いがしっかりと生きています。
- 子供は男じゃなきゃいけない。男しかいらない。
- 女として生まれてしまうと、かつて自分が経験したように、なにをどうがんばっても、すべてが無駄になる人生を送ることになってしまう
かつて、望まれない女の子として経験してきた、悲しい過去の出来事の数々がトラウマとなって彼女に強烈にしみつていたのでしょう。彼女は男の子を出産することを熱望していました。名前も洋服も、男の子向けのものしか用意しないような徹底ぶりでした
しかし残念ながら、生まれた私は女でした。「生まれたのが女だとわかった瞬間、本当にがっかりしたものだ、あんたはどうして男じゃなかったのか?」幼い頃から嫌になるくらい言い聞かされてきたものです
生まれた瞬間から性別を否定され続けてきた私もまた、順調に歪んでいきました
余談ですが、母はその後子宮の病になりました。その時両親は、私に何と言ったと思いますか?
「お母さんが子宮の病気になったのは、お前が男として生まれてこなかったせいだ。お前が置いてきたものが、お母さんの子宮の病気になったのだ」と私に向かって言ったんです
もちろん冗談半分でしょう。笑いながらでした。しかし、母が病に倒れたのも、お前が女だったせいだ。親に面と向かってそう言われたことは、子供の私には強烈に記憶されました。
どこまでも、女として生まれた私というのは、マイナスであり否定の対象だということを、嫌というほど心身に刻み込んだのです
いらない子(私)を道具として使用開始
母はいらない女として生まれてしまった私を、祖父母の承認と愛情を得るための道具として使えるだけ使おう、という作戦に出ました
持ってるものは子供だろうがなんでも利用して、いつまでも得られない親の肯定と承認を得ようと必死なのです。ここまでくると、親の愛を得る行為とは、もはや彼女のライフワークといってもいいでしょう
具体的には、私に勉強や習い事などで優秀な成績を出させることで、「私はこんなに立派な子を育ててるの!お父さんお母さん、ほめて!」と、両親に称賛と承認を得ようとしたのです
そのため、私にはいつも、鬼の形相で勉強や習い事で結果をだすことを強要し続けました。私は勉強も、母から強制される習い事も、まったく興味がありませんでしたが、私にそれらを拒否する権限などありません。鬼のように迫ってくる母に従うしか、生きる術はありませんでした。
しかし、祖父母は、私がどんな手柄を立てても、母の望むような称賛も承認も、母に与えることは一度もありませんでした。祖父母は、母にも、母が産んだ子である私にも、まったく興味がないのです
私は、自分が祖父母からまったく関心を持たれていないことに気づいていましたが、そんなことは別にどうでもいいと思っていました。いつもどこか冷たくて、会話もろくにない祖父母というのは、私にとっては正直、他人同然でした。
もしかしたら母は、祖父母が自分に興味がないということに、うすうす気づいていても、気づかないふりをしていたのかもしれません。母にとって、両親に関心を持たれていないことを自覚するのは、自分が崩壊するような衝撃を受けてしまう事態になってしまうからでしょう
しかし、母がなにをどんなにがんばっても、欲しかった「親の愛」は、いつまでたっても得ることはありませんでした。
モラハラサイコパス夫との不幸な夫婦関係
母が20代の頃、結婚したくてもなかなか結婚できずに焦っていたそうです。
焦った母は、ある日出会ってしまった父との結婚を決めてしまいました。
「あの人で本当に大丈夫なの?なんだか気難しそうな人だよ」仲良くしていた友人からの、そんな助言があったそうなのです。友人の勘大当たり!あの人は気難しい上に、不機嫌でサイコパスで最低の男でした。
しかし母はそんなありがたい助言を振り切り結婚へ走りました。そのため、結婚後、身を以て父の持つ異常性の数々を知ることとなったのです。
父の具体的な異常性とは…少しのことですぐ不機嫌になる、怒鳴る、威張る、暴力を振るう、盲目的に毒親に送金し続けるのでお金はなくいつも貧乏。何もかもが大ハズレの男だったのです
父のドクソ人間っぷりは、別記事でじっくりとくわしく書き記しています
私はある日、「なんでお母さんは(あんな腐れどクソな)お父さんと結婚したの?」、そんな風に母に聞いたことがありました。そうすると母は、「んー、顔が良かったから?」とぼんやり答えていました
結婚への焦りと、見てくれといううわべだけで生涯の伴侶を選んでしまうと、次世代までこのような地獄の連鎖が続く。私はこの夫婦から、それをいやというほど学びました。
母の配偶者選びの大きな失敗は、私にとっての重大な反面教師となりました。その大失敗な結婚によって、長年にわたってたくさんの実害を受け続けているわけですから、それはそれは大きな痛みや苦痛を伴った強烈な反面教師でした。
超絶大失敗な結婚を毎日目の当たりにしているわけですから、私は幼い頃から結婚自体に大きな恐れを抱いていました。「結婚は人生の墓場である」という言葉に深くうなずいたものです
それどころか、私は小学生頃には、「結婚しないでずっと一人で生きて、このままこの家で両親のケンカの仲裁をしながら生きるとすると、たぶん30歳くらいには疲れ果ててるだろうから、その頃にはとっとと死にたいなぁ」という悲惨なライフプランを願うようになっていました
頼れる人や団体を探し、さまよい歩く日々
父は自己中心的で家では暴君。妻である母と共に、二人三脚で家庭を運営するどころか、いつもご機嫌取りをしてあやしてやらないと暴れ散らす、体のでかい子供のようでした。母はよく、「わたしに夫はいない。大きなわがまま息子がいるだけだ」と、私にため息まじりに言っていたものです
母は、他の家庭のように、夫と支えあいながら、夫と共に人生を歩むことができません。なにせ夫は夫ではなく、わがままな息子なのです。母は一人で立っていなければならに心細さで、恐らく誰かや何か頼りたかったのだと思います。彼女はいつも、よりかかれる人を求めてさまよっていました。
優しい人を見つけると全力で粘着していました。嫌がられたり嫌われるとすぐに次を探します。優しいママ友や、人のよいご近所さんにいつもべったりと粘着する一方で、それでも埋まらない心のすき間を埋めるためか、様々な自己啓発セミナーや宗教を転々としていました
子供である私も一緒に、さまざまな自己啓発セミナーや宗教施設に連れまわされていました。こないだまで西洋の神様に祈ってたと思ってたら、次はアジアの神様。宗教だけではなく、ポジティブなシンキングが何とかセミナーなど、母の依存対象が変わるたびに、祈ったりポジティブになったり、通う宗教や施設がくるくると変わっていました
親からの愛がほしいけどもらえない。
自分には頼れる人がいない。
夫は頼れる人ではない。
母は、この強烈な孤独感や寂しさを埋めたくて、依存できそうな優しい人や団体をいつまでも探し回り、見つけたらそこに全力でくっつき、べったりと依存するような性質が出来上がったのです
子供を「自分が自由に扱える道具だ」と勘違いしたこと
両親からはいつまでも愛情や承認がもらえず、夫は頼れない。寂しい、人とべったりくっつきたい。そんな状態の母に、子供が誕生しました。してしまいました。私です…
望まない性別の子供とはいえ、小さな子供というのは、親がいないと生きていけない存在です。そのため、子供は生きるためにどんな親でも全力で親を求め、親にすがります
その姿を見て、母は恐らく「この子は心から私を求めている」と大いなる勘違いをしてしまったのでしょう。いやそれ、赤ん坊が生存するための本能的行動だから…という事実は彼女には目に入りません。彼女にとって、赤ん坊の言動は「この子は他の人と違って、心から私を求めている!」というふうに映っていたのです
親や夫から十分に得られない愛情や承認の欠乏を、自分を無垢に求めてくる子供という存在で満たす。(子供は、本当は彼女自身を求めているのではなく、生存のために食料や世話をする対象を求めているだけなのですが、彼女の頭にはそれはありません)
やがてその気持ちや行動はエスカレートし、親という全能の立場から操れる幼い子供を思い通りに支配し、子供の領域にずかずかと侵入することで、自分の欠乏や不満を満たそうとし始めました
子供の領域にずかずかと侵入する毒母
母はいつも、子供を一人の人間として尊重するという考えは一切頭にありませんでした。母にとって子供とは、親が自由に操作できる所有物でした。
もちろん親と子の間には、境界線などありません。そんなものは簡単に踏み超えます。息を吸うように子供の領域に侵入し、蹂躙していきます。お前のものは俺のもの、まさにジャイアニズムの体現です
たとえば、自分が子供の頃に憧れていた時代遅れの楽器や、見栄えが良く自慢しやすい習い事などを、子の希望など全く考慮に入れずどんどん強要し、そしてすべて結果を出すことを強要します。
母にとっては、「私がさせたいことは、子供もしたいに違いない」のです。母の中では子供と自分の気色悪い同一化が当然のことなのです
服も持ち物も、母好みのデザインで、時代遅れのダサいものを押し付け、子供が希望するものは「そんなはしたなくて下品なデザイン禁止」と絶対に許しません。「しつけ」や「親からのアドバイス」という美名のもと、子供の希望は一切否定し、自分がいいと思っている古くておかしなものを一方的に子供に押し付けてばかりでした
また、私が、交換日記などで友達同士で秘密を持ちたがる年頃になると、母は私の机の中や持ち物を、毎日すべて漁り、内容をすべてチェックして秘密を暴くようになりました。
「あんた交換日記に書いてたけど、〇〇君が好きなの?子供のくせに、いっちょ前に好きな子なんているの?へぇ~ませてるねぇ。気持ちわる(笑)」
「あんた昨日の日記で悩みを書いてたけど、あんなことで悩んでるなんてほんと馬鹿だよ?」
ニヤニヤしながら、バカにするようにそんなことを言われた当時、恥ずかしさや怒り、不快感などさまざまなネガティブな感情が体中を駆け巡り、まるで血が逆流したかのような感覚になったことを今でもよく覚えています。
しつけのため、子供のためという言葉で、侵入を正当化
そのように、いつも子供の秘密やプライバシーをあさり、把握するどころかバカして笑うのは、彼女にとって当たり前の行動でした。彼女にとっては母と子の間には境界線がなく、母子同一の状態なので、悪いことをしたという意識は一切ないのです。
ここでも私が怒ったり非難をすると、「あんたのため」「しつけのため」という美しいワードでくるみ、自分の行動を正当化します
私は成長するにつれて、しつけと正当化された母の侵入の数々を本当に気持ち悪く、不快に思いましたが、養われている子供の身なので、この場から逃れることはできません。母が、「お母さん、あなたのために必死にやってあげてるのに」と泣かれると、何も言い返せません
私は自己防衛のために、友達との交換日記は辞めました。そして毎日書いて机にたてかけていた日記には、誰に読まれてもいいような当たり障りのない内容だけを書くようになりました。自分の本音は、家庭内では一切外に出さないようになりました
困ったときには無関心
こんなに私に執拗に侵入してきて、さぞや母は私のことを理解してるというふうに思う方もいるでしょう。しかし全くそうではなかったんです
私が辛いとき困ったときに、母に相談しても全く興味を示さず、それどころかめんどくさそうにいつも私を追い払っていました
彼女が欲しいのは自分の役に立つ道具として働く子供という存在であり、悩み苦しんで泣いている私など、面倒でわずらわしくて、全く必要ではなかったのです
私が病気で苦しんでいた時はケアを面倒くさがり、はやく治れ、熱を下げろ、と解熱剤や抗生物質を大量に飲まされました。
ある日、旅行を予定していた日、私は当日体調を崩し、発熱してしまいました。
しかし母は、旅行を優先したのです。私は熱でフラフラになりながら、嬉々として観光して回る母の後をついて行ったものです。具合が悪いのに連れられた食事中に鼻血が出て、白いご飯が真っ赤に染まってしまったことを覚えています
私が利用価値のある時だけ必要とし、それ以外の面倒で役立たずの私は全く必要がない。母は、子供のことを、そんな冷酷で極端な扱い方を平気でしてきたのです
母の侵入がエスカレートしていく
母の、私との距離感の取り方は、年を経るごとにそのおかしさや気味悪さをエスカレートさせていきました。
私が社会人になると、気持ち悪いくらいに私にべったりとくっついてくるようになったのです。本当に嫌だったのですが、当時、親孝行教に洗脳されていた私は、母がやりたいようにさせるのも親孝行なのか…と気色悪さを我慢して母のやりたいようにやらせていました
例えば、私が買い物や用事のために外に出かけるときは「ママも一緒に行く!」といつも付いてきたがります。それから、私の職場の同僚のことや友人関係を執拗に知りたがります。知りたがるだけでなく、職場に差し入れを用意したり、友人にプレゼントを渡すなど、私の築いた人間関係に異常に接近したがるのです
その他、頼んでもないのに通勤の送迎をしたがります。私を会社へ送り届けた後、母はまっすぐ家へ帰らずに、会社のエントランスにあるカフェで、持ち込んだ主婦雑誌を読みながら何時間もくつろいでいました。
カフェの椅子にふんぞり返り、いつまでも私の職場でくつろぐ母の姿を見て、私は心底気持ち悪さを感じました。
私が自力で見つけ出したり、1から一人で作り上げた私の居場所に、母はどんどんと土足で侵入してくる。そして、まるで最初から自分のもの、自分の場所であったかのようにふるまう。母の侵入が不快でしょうがありませんでした
お前のものは俺のもの。お前が作り上げたものはすべて私の者なんだ。親と子の間の境界線がなく、侵入が当たり前になっている母にとっては、私が一から築き上げたものや手に入れたものも、すべて自分のものなのです
依存的な性格はなぜ作られたか
ここまで、母から言い聞かされていた母の生い立ちと、私がこれまで母にされてきたことの数々を書いてきました。
母の依存的な性格というのは、下記のような人生を辿ることで作られたと思われます
- どんなにがんばっても、自分の両親から満足な愛情と承認を得られなかったことによる、大きな愛情欠乏状態、満たされない承認欲求、寂しさによる暴走
- 産んだ子供を自分の所有物と思い込み、一人の人間と認めずに同一化したという愚かしい心の動きのままに子供を利用し、抱え続けている寂しさをごまかそうとした
親から愛情や承認をもらえないまま、大きな寂しさを抱えたまま生きてしまったことと、その原因である親との関係に真正面から向き合うことなく、目の前の子供をはじめとした、周りの人間や団体を貪り食うことで寂しさをごまかしつづけてきたことの結果であるといえます。
彼女は現在、後期高齢者となりましたが、相変わらず寂しさや欠乏から逃れられずにいます。「私を構え!もっと連絡を知ろ!」と執拗に連絡をしてきます。
彼女の欠乏の根源である、幼い頃からの自分と親との関係性に向き合い、欠乏を自分で満たす方法を探すという、自分の悩みの根っこを掘り下げる努力をせず、向き合うこともなく、子供や他人を道具のように使ってごまかしてここまで生きてしまったのですから、いつまでたっても欠乏感から逃れられないのは、当然と言えば当然です。
私が依存的な母に操られた状態のおかしさに気づき、べったりと絡みつかれた状態から必死で逃れた時。母の発狂具合はそれはすごいものでした。母と決別するまで、エネルギーや年数をたくさん消費してしまいました。その格闘の経過を記した記事がこちらです↓
なぜ毒親は毒親になるのか
ここまで父と母の生い立ちや行動原理を見ていくと、彼らが毒親になった理由として、大変似通った部分があることがわかります。
それは、親からの愛情や承認がもらえないことで、彼らは大きな欠乏を抱えたまま大人になってしまったということ。そして、その満たされない欠乏や飢餓を満たすことが、人生の第一優先になってしまっていた、というところです
頭の中が、欠乏を満たすことが第一優先になっていると、そのために周りの人間を道具のように利用することに、なんのためらいも違和感も罪悪感も感じなくなるのです
欠乏が満たされないまま、そして自分に巣食う毒親の毒が解毒できないまま生きてきた人間同士が結婚し、なし崩し的に作ってしまった家庭で、毒人間による地獄家庭を再生産したのです
もしかして、父と母は、幼い頃からの満たされない欠乏を抱えているところに無意識化で共通性を感じ、惹かれ合ってしまったのかもしれません
以上が、毒親とはどうやって作られるのか?うちの依存的毒母の生い立ちから、そのルーツを追う記事でした。毒父の成り立ちと合わせて読んでいただきますと、毒親が作られる過程というのがよりわかりやすく、そして多くの共通性があることがわかります
とても興味深いものではありますが、できれば自分の親が観察対象になりうるような、立派な毒親であってほしくはなかったですね…
私の家の毒親についての考察が、なにかの参考になりましたなら幸いです
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