毒親育ちは「幸せな家庭は別世界の話」と思い込むことにした

毒親育ち

親が子を愛情をもって育てる、暖かい家庭。

そんな家庭はきっと、この世にたくさん存在するのでしょう。

だって、漫画や本などの物語にも、暖かい家庭のシーンはごく普通の風景として登場しますものね

そんな暖かい家庭に恵まれて生きる人たちのことを、毒親家庭生まれの私はかつて、

違いすぎる…<br>
違いすぎる…

暖かい家庭は、しょせん自分とは別の世界の出来事だから…

そうに違いない…
そうに違いない…

暖かい家庭で育った人なんて、甘やかされてろくな人間になれないにちがいない!

こんなふうに思っていました

いえ、こう思い込もうとしました

そう思わないと、毒親家庭でボコボコにされ、ボロボロだった私は、正常な精神状態でいられなかったんです…

私が思った通りに、幸せ家庭に生まれ育った人は、本当にろくな人にならないのでしょうか?

そして毒親家庭でボロボロだった私は、果たしてりっぱな人間になったのでしょうか?

結果としては…私の予想とは逆でした

幸せ家庭で育った人は、大体が自分の人生を明るく力強く歩む人に成長し、一方で毒親育ちの私は、少しのことでダメージを受け、うつ病や不登校で人生が停滞するような、弱々しい人間になってしまいました…

この記事では、暖かい家庭に生まれ育った人たちと、毒親育ちの私が、どんな人生を歩んで、どんな人間に成長したのか?

私の悲しい予想はどれだけ大はずれだったのか?ということを記していきたいと思います

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残酷な現実から身を守るために「思い込む」

私の育った家庭は、毒親の支配下にありました

親の暴力や親からの指示には、子供は絶対に逆らえない。

もしも逆らったら生きる場所はない。そんな価値観で運営されていました。

安心とはまったく反対の、修羅の世界ですね。

修羅の世界で、日々必死で生き延びている私が、

  • この世には、親の愛情や思いやりにつつまれている、あたたかくやさしい世界でできている家庭で、幸せに生きる人がたくさんいる
  • しかもそんな幸せ家庭はけっこう多い

そんな事実を正面から受け止めてしまうと、自分の置かれた立場の惨めさや、理不尽な現実への絶望感で、頭がどうかなってしまいそうでした

どうがんばっても、子供は一人で生きられない

子供は決して一人では生きられません。

生まれてしまったこの場所には、たとえ毒親などの変な大人しかいない環境であっても、独り立ちできる年齢になるまでは、そこで生きるしかないのです

生まれ育つ環境は、通販と違って、嫌だから・不良品だからキャンセル!返品交換!

そんなことは絶対にできませんものね…

親ガチャ、なんて言葉が生まれるゆえんです

暖かい家庭に触れるとき

友達の家に遊びに行くと、いつも笑顔で、私にも優しくしてくれる、友達のお母さん。

友達が困ったときは、いつも子供の力になってくれる友達のお母さん。

そして、例えば子供がいま行っている習い事が嫌だというと、しっかり話し合いをして、子供の意思を確認した後、無理やり続けさせることなく辞めさせてくれる友達のお母さん。

私は、友達のお母さんと関わる機会があるたびに、自分の親との違いに打ちのめされていました

なんで、よそのお母さんというのは、子供の話をちゃんと聞き入れてくれて、こんなに子供のことを理解してくれるんだろう

子供を優しく包み込んでくれる、天使のような人が「普通の」お母さんなの?
私のうちにいるキレて暴れる親って何?

うちにいる毒親と、友達の優しい親。

この違いを目の前に見せられると、キツかったです

友達の家に遊びに行き、やさしい親、幸せ家庭をたっぷりと見た後に、日も暮れた夕方、毒親の待つ家にひとり帰るときは、今日見た事実と、これから帰る毒家庭とのギャップで頭がぐるぐるしました

「どうして私と友達とはこんなに違うの?」そんな答えの出ない問いが頭を巡ります

これから帰る家には、いつどのように爆発するかわからない人間地雷のような毒親がいるという、私の残念な現実が待っています

おなじ人間なのに、同じ同級生なのに、帰る家にいる大人の明らかな違い。とても気持ちが追い付きませんでした

暖かいとは真逆の毒親家庭

私はいつも、親から「あれやれ!これやれ!」「こんなことしてはだめだ!」というふうに、行動を厳重に管理され、常に指示・命令されていました。

私の意思など関係なく、様々な親の指示を無理やりやらされたり、反対に、やってみたいことはことごとく禁止されていました。

親の気が済むまで、習い事や勉強、親が暇なときの強制的な外出(もちろん行先は親が行きたいところです)、そして愚痴や人の悪口を聞く相手をさせられます

また、親の機嫌の悪いときには突然暴力や暴言のターゲットになります

そのため、家では常にビクビクして気を張っていなければならないのです。

リビングで昼寝なんてとてもできないくらい、私の神経は常に張り詰めていました

家にいる時は常に、これらのことを気にしながら、まるで地雷原を歩くような生活をしていました

  • 父親と母親の機嫌はどのような状態か?
  • どこまで接して会話するのが許されるのか?

「これは別の世界の話だ。」と思うことに決めた。

友達の家のやさしい親と、私の恐ろしい親。

この余りの違いを完全に認めてしまうと、たぶん私は精神がおかしくなってしまう…と心の奥底で気づいていたのだと思います

だからある時から、友達の親と自分の親が全然違うということについては、

「これは別世界の話だから、深く考えないようにしよう」と決めて、深く考えないように決めたんです。

ふとしたときに目に飛び込んでくる「幸せ家庭話」

しかし、友達が優しい親に恵まれて幸せに暮らしている事実を、私がどんなに自主的に考えるのをやめたとしても、「親子愛情物語」はふとしたときに目に飛び込んでくるんですよね…

たとえば、趣味の一つだったマンガや読書を楽しんでいると、それは突然目の前に現れます

作品の中で、あたたかい家族団欒シーンや、子供を愛情深くみまもる優しい親が、嫌というほど出てくるんですよね。

しかもそんなシーンは、突然かつ当然に現れます

がんばって見ないように考えないようにしていた幸せな人たちのことを、好きな本や漫画の中で、とつぜん飛び込んでくる。避けようにも避けられない。

私は幸せな人たちを、意思とは無関係に、また見なければならなくなるのです。

どんなに目を背けても、油断するとふっと私の目の前に出てきて、その幸せっぷりを見せつけてきます

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例えばどんな愛情物語を本や漫画で目にするかというと、

◆お父さんは時には厳しいけれど、かわいい娘にはどうしても甘くなっちゃう。娘の結婚式では大泣き!

このエピソード書いてて思い出してしまいました

私の毒父は、私の結婚式を無料で参加できる宴会だと思ってたようです。

泥酔し、ヘラヘラして、だれよりも大騒ぎしてました。

母は式進行で忙しい私のところにきて父の愚痴を吐きに来ますが、父を止めることはしません

彼には、式で涙の一滴も流す様子などありませんでした

だって彼にとっては、娘の式とは、無料で騒げる宴会ですもんね…

もう結婚式のことなんか思い出したくもありません

◆お母さんは太陽のような明るく笑顔で子供を包んでくれて、子供が辛いときはすぐに気づいてケアしてくれる

またか…
またか…

出た。また出たよ。優しい家族のほっこり幸せ話…こっちは一生懸命避けてるのにさ。

いい加減にして…
いい加減にして…

リアルもフィクションにも幸せ家族があふれすぎててさぁ、こっちは目がつぶれるわ!

でも、本や漫画でよく見かけるシーンだってことは、これが「家庭の普通」である可能性、こんな家庭が多いという可能性が高いのか…高いんだろうなぁ…

夫婦喧嘩で激しく罵り合う父母からのとばっちりを受けないよう、押し入れに逃げた夜。

せめて楽しい漫画の世界に浸ろうと、暗い押し入れのなかで漫画を開くと、見たくもないのに目の前に現れる「幸せ家族団らんシーン」…

最高に皮肉な登場の仕方じゃね?と、逆に笑いがこみあげることもありました

幸せ家庭で甘やかされた人は、ろくな人間にならないに違いない!

私がどんなに目をそらしても、どんどん目の前に飛び込んでくるたくさんの暖かい幸せ家族エピソードの数々。

暖かい家族に恵まれて育った幸せな人はこんなにたくさんいるのに、どうして、私に与えられたのは、暴力と強制と嘲笑にまみれたクソみたいな家庭なんだろう?

どんなに避けてもあまりにも目の当たりにすると、どうしても、このことを考えてしまいます

長い悩みや考えの果てに、子供時代の私が見出した答えはこうでした

「幸せに育った人は、苦労していないからろくな人間にならないに違いない」


しかし。現実とはますます残酷でした

この必死にひねりだした考え方は、大きな間違いであることにだんだん気づくのです。

幸せ家庭育ちは、ピンチをものともせず元気に乗り切る

幼かった私やまわりの友人も、やがて十代になり、そして社会人になります。

ここまでの過程で、私もまわりの友人知人たちも、さまざまなことに出会います。

時にピンチといえる場面も訪れます

そこで、幸せな家庭で育った人たちは、一体どんなふうにピンチを迎え撃つのか?

私は周りの幸せ育ちの人たちの様子を、しっかりと見てきました。

ほーら、今まで幸せのんびり生きてきた人は、ここで落とし穴にはまって不幸になるんだよ!けけけ!

高笑いしてこう言いたい。

そんな意地悪な、ねじまがった根性で見てました

だって、幸せな人はいつまでたっても幸せなままって、不公平じゃないですか!私はずーっと不幸な家庭にいて、無駄な消耗をし続けてるというのに…

長年おかしな家庭に育つことで、こんな心を肯定するぐらいには、私は思考が歪んでいました

もし私の考えた通りに「幸せに育った人は、苦労していないからろくな人間にならない」ならば、ピンチでかんたんに沈んでしまう、ということになりますよね

しかし。現実はまったく逆でした

軽やかにピンチを退ける幸せ家庭育ち

幸せな家庭に育った人は、どんな辛い出来事があったとしても、たいてい大騒ぎすることなく静かに受け止め、そして困難をスッとかわすんですよね。

もしくは、困難だと事前に察知する能力、そしてするっと自分から困難との距離を取るのがとても上手なんです

彼ら、彼女たちは、例え大きなピンチに遭っても、必要以上に慌てることなく乗り越えます。なんならピンチが訪れ、それを乗り超えるたびに、彼らは強く賢くなります

なぜ、幸せ家庭育ちはピンチを軽やかに退けるのか?

幸せに育った人たちは、なぜピンチをさっとかわすことができるのか?

これはわたしの推測なのですが、

  • 「絶対味方になってくれる家族がいるから、自分は困難に打ち勝てる!」という自信に満ちている
  • いざとなったら家族に助けてもらえるという大きな安心に包まれているため、困難にいたずらに振り回されることがない

こんな理由ではないでしょうか

「ろくな人間」にならなかったのは、毒親育ちの私の方だった

逆に、ろくな人間にならなかったのは何を隠そう、おかしな家庭に生まれ、おかしな育ちをした私の方でした

子供の頃からどう動くかわからない親の動向にいつもびくつき、親の顔色を伺ってやりたくないことばかりをしてきた後遺症で、心も体もとっくに疲れ果てています。

そして長年親からの暴力におびえながら生きた後遺症でしょうか、少しのストレスにも過敏で、なにもできない人間になってしまいました

そんなところにピンチが降りかかってきたらどうなってしまうか?というと、ピンチにまともに当たって吹っ飛び、しばらく動けなくなるようなダメージが心身にきます。

動けなくなった私に、毒親は嫌味や嘲笑や罵倒を浴びせ、ますますダメージが蓄積します

私は劣悪な家庭環境による、積み重なった疲労の影響で、受験や人間関係など、普通の人が普通に乗り越えられるようなイベントですら大きなダメージを受けて、そのたびに人生は停滞しました

学生時代は不登校になり、そして大人になっても、うつ病で長年動けない状態になりました

幸せ家庭育ちとは、まったく逆の方向性の人生を歩んできたわけです。

自分で自分を嘲笑するべきでしょうか…

この差は何?

子は生まれてくる場所を選べません

そしてどんな人間に育つか?はどんな家庭で、どんな親に育てられたかが大きな影響を及ぼします

幸せな家庭で生まれ育った人は、困難に打ち勝てるような強いメンタルや自信といった、強く生きるのに必要不可欠な要素をしっかりと培うことができる

不幸な家庭で生まれ育った人は、すでに心身がボロボロで、困難に出会うとすぐに折れてしまう…

なぜ、人が生まれ落ちる家庭には、ときに天国と地獄くらいの大きな差があるのでしょう?

そしてなぜ、私はおかしな毒家庭に生まれ、幸せそうな家庭で生きる友人を横目で見ながら、毎日毒親の暴力や強制によって消耗しながら、暗くて重い日々を生きなくてはならなかったのでしょう?

その答えは?そしてこの人生の負荷の差はいったい何だったのか?

その確実な答えは、大人になった今でもわかりません

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