毒親仕込みの「必要以上に力んでしまう癖」。これをなくすために取り組んでいる事

毒親育ち

私は昔から、何をするにも、いえ、何をしていなくとも、必要以上に全身に力を入れてしまう癖があります。

そのことについて、これまでいくつかのブログ記事も書いてきました。

毒親育ちはやる気がない?いいえ、いつも体に力が入ってて疲れてるだけです
毒親育ちの皆さん、いつも体に力が入ってしまいがちじゃないですか?私はそうなんです。普通育ちの人って日常生活を送るときには驚くくらいに体に力が入っていないんですよね。私もそうなりたいな…と日々力を入れないで生きる意識をしてるんです

過去の記事でも触れたのですが、なぜこのような力み癖がついたのかというと、これもまた毒親後遺症。かつて共に暮らした毒親からの悪影響によるものなんです

毒親家庭に暮らしていると、毒親からいつどのような命令や叱責や暴力などの攻撃が飛んでくるかわからなくて、まるであちこち地雷が埋められた場所に生きているような感覚でした。

そのため、毒親との同居中は、毒親からの命令や奇行に何とか全力で対応したり防御できるよう、実家に暮らしていた頃の私はずっと、特に小さなころは、全身に力を入れて身構えて暮らしていました

長くこのような悲惨な環境に生きてると、悲しくも、そこから離れてもなお、この無駄に全身力み癖・いつも戦闘態勢の癖が取れずにいるんです。

「自分はどうやら、力まなくともいいところで力み、常に無駄に力んでしまっているようだ」ということにやっと気づけたのは、毒親から身も心も離れてしばらく経ったあとでした。

毒親という脅威から、時間的にも物理的にも離れてしばらく経ってからだったんです

例えると‥戦いの最中には生き延びるのに必死だったけれど、そこから逃げ切った後になってやっと、全身から血を出していたり痛みを感じていることに気づけた、といったところでしょうか…

しかも。原因である毒親から遠く離れ、自分の力み癖に気づいてもなお、毒親による恐怖の記憶が張り付いた心身からは、いつまでたっても力み癖・臨戦態勢癖は取れないままなんです

それでも、毒親に削られて残り少ないエネルギーを大切にしたい。無駄な力みでエネルギーをこれ以上なくしたくない‥その一念で、私は長年抱えてきた力み癖をなくす努力を続けているところなんです

実際にどんなことをしているか?というと、

  1. 自分の動作の棚卸し作業をする
  2. 動画や漫画をみて、それをお手本に学ぶ

主にこの2つの方法です

私の体内に根深く染みついた無駄な力みを取るべく、日々取り組んでいることや、具体的にどんなものをお手本にしているのか?ということを、この記事に書いていきたいと思います

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自分の動作の棚卸し作業をする

生活をしている中で、気持ちや行動に余裕があるときには、動作をしながら「今のこの動作にはこんなに力が必要かな?ということを一つ一つ確認する、”動作の棚卸し”」をしています。

例えば、私が特に苦手すぎて嫌すぎて力が入りがちな料理やメイクや髪を整える時。心や体力に余裕があるときには、その一つ一つの動作や全身の状態に注目し、できる範囲で楽な方に動作を修正します。

キッチンで食事の支度をするときに、料理やキッチンが苦手で大嫌いな私はつい、利き足にめちゃくちゃ力を入れて踏ん張ってしまうんです

「辛い、もう逃げ出したい、いつでも逃げ出せるように力を入れとこう」という気持ちの表れでしょうか?

だから昔からいつも、右足首だけが異常に凝っているんですよね‥

私

料理中、こんなに力入れる必要あるかな?

私

料理するのに、利き足にこんなに力入れなくてもいいよね?

力が入りながら料理をしている状態に気づけるくらい、気持ちに余裕があるときには、料理をするためには、こんなに足に力入れなくてもいいよ、と自分に言い聞かせて、力を抜くようにします

そして体にたくさん力が入っている時って、同時に呼吸が止まりがちなんですよね。

苦手なことをしているときは特に、無駄に力むだけではなく、息を詰めて作業していることが多々あります。体も心も緊張状態なのでしょうね

私

あ、今、呼吸止まってるから、ゆっくり息しよう。

私

息を止めなくても、私にはこの動作はできるよ。

こんな風に自分に言い聞かせつつ、呼吸や力みを抜いてより楽に動作できるように、自分を誘導するんです

自分の動作に気づけて省みる余裕があるときに、こうして動作と力みのバランスに目を向けたり、そしてそこから全身に入っている無駄な力を意識的に1つ少しずつ抜いて、呼吸を意識すると、「力を抜いても行動ってできるんだなぁ」ということに改めて気づくことができます。

長年の悪癖は心身に深く食い込んでいて、そのまま「気づけたからすぐに力まず動作ができるようになる!」とは簡単にはいきませんが‥

無知の知(「自分は知らないんだ」ということを知る、自覚する、ということ)という言葉があるように、「自分は無駄に力んでいる。呼吸がとまりがち」という自分のおかしな部分への気づきがあるとないとでは大違い。

この気づきを得られたということで、これからそのおかしな部分を改善できるか否かが大きく違ってくると思うんですよね。

自分の現状に気づけた私は、ここから、力みのない世界へいくためのスタート地点にやっと立てた‥と言えると思います

動画や漫画をみて、それをお手本に学ぶ

しなやかに家事や日常動作を行うYouTuber

しなやかに力を抜いて流麗な動作をしている、そんなお手本が、私にはたくさんあります。

例えば、しばらく前から大好きでいつも視聴して「こんなふうになりたいな」、と憧れているのは、ライフスタイルユーチューバーのriokoさんです

私は彼女のファンブログまで書いてしまうくらいにriokoさんファンで‥毎週の彼女の動画アップを楽しみにしています。

家事の基本、丁寧な暮らし。素敵ライフスタイルyoutuberに教わっています
私の実家のキッチンは、一言でいえば「魔窟」でした。家事とは苦行。汚いキッチンにはいつも辛そうに家事をする母がいました。でも、ある素敵なライフスタイルyoutuberの動画から、私は少しずつ、家事との付き合い方や楽しみ方を教えてもらっているんです

彼女は生活のどのシーンでも、動きに無駄な力みがなくて、まるで流れるように行動するんです。

本当に憧れます‥いったいどんな暮らしをしてきたら、こんな力みのない自然な動きができるのでしょうね?

一つ言えることは、私は今生、riokoさんのこの場所に到達することは絶対に無理だということですね‥

それでも、たとえriokoさんの万分の一でもいいから、この流れるような身のこなしを身につけてみたいな、と憧れの気持ちを持ちながら、動画を視聴しています。

(ただ‥私は料理を作るのも、作るのを見るのも辛さを感じるほどに大大大嫌いなので、いくら大好きなriokoさんが料理していたとしても、料理シーンだけは見ていて辛くなり、そっと飛ばしてしまうことがあります‥)

私は特に、riokoさんのキッチンリセットシーンが大好きです!

たくさんの洗い物を次々にきれいに洗って、シンク上と脇の網棚にさっさっと無駄な動きなく片づける。これを(私のように)大きな物音を立てたりバタバタすることなく、流麗に食器やシンクまわりをさくさくと片づけていく様は圧巻です。水や食器の音もまた癒し。いいんですよねー

ブログを書く手を止めて、何度もみたはずのキッチンリセット動画↓にまた、見入ってしまいました‥

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葬送のフリーレン、登場人物のゆるい動きに注目する

2023年秋、人気漫画がアニメ化され、ますます人気が沸騰している葬送のフリーレン。

この作品を「力まない動作のお手本にしてる」人間は私以外にいないと思うのですが…

私はこの原作の大ファンなのですけれども、原作ではよく、登場人物の日常が描かれているのですが、それがまた、全然力みがなくて、淡々とゆるーっと過ごしているんですよね。

いつもぼーっとしたような感じで日常を送りながらも、しっかりとやるときはやる。魔物討伐やその時々に与えられたミッションをがっつりクリアしてるんですよね。

その大イベント中でさえも、私の日常にあるような、体への無駄な力みは、登場人物からは感じられないんです

フリーレンたちの日常を描写したひとこまです↓ゆるっと力みなく生きている様、伝わるかな‥(公式Xより画像をお借りしました)

「でもしょせん漫画、つくりものじゃん!」と言われればそうなのですが‥

でもそれでも私は、描かれる登場人物たちの力の抜きっぷりに憧れを感じていて、「自分の実生活で、彼らのようにゆったりと力の抜いた状態で生活をしてみたい。どれくらい再現できるかな?」と彼らの挙動を真似てみたりしています。

おわりに


毒親家庭で生きていた頃。特に小さなころは、毒親からぶつけられる不安や恐怖やなどで急かされ焦らされ、いつ攻撃されるかわからない恐怖でとりまかれ、私はいつも全身に力を入れて生きていました。

そのとき身についた悲しい名残は大人になっても、毒親を疎遠にしても、自分にこびりついて苦しめられています。

しかし、これから残った人生、せっかく不安や恐怖で脅してくる元凶(毒親)から離れられたんですから、もうちょっと力を抜いて軽やかに力を抜いて生きていきたい‥と強く思うんです

そのためには、余裕のある時に自分の一つ一つの行動を見直したり、しなやかに力なく、動作をしている人や創作物をお手本にして真似をしながら、自分の動作をたった1つでもいい、力を抜いてしなやかにできるようになりたいと苦闘しています

生活での動作が、例えば1日に10000あったとして、そのうちの1でも2でも、力が抜いた状態でできるようになったらラッキー!ぐらいのゆるさで考えています。

たとえたった一つでも、その時に「私にもこんなに力を抜いて動作ができた。力を抜いてもここまでやれるんだ」という気づきや達成感をじっくり味わい、感じることが大切なのかな、と思うんです

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